私のここ13年間の旅は、私の師との出会い、その影響を除いて語ることはできません。
私の師はカーリー・イシャヤというアメリカ人女性です。カーリーというのはヒンドゥー神の名前で、彼女がイシャヤの僧侶となる誓いをたてたときに与えられた名前です。彼女の人生はイシャヤのアセンションへの献身と、彼女から学ぼうと集まる人たちへの奉仕に捧げられています。彼女は真に目覚めている人ですが、インターネットも一切しませんし、本も出版していないので、私たちのコミュニティ外では誰にも知られることのない存在です。もし彼女と出会っていなかったら・・・私のアセンションの理解は、個人としてenlightenmentに至るための道具、という範疇にとどまっていたと思います。
彼女は”すべてなるもの”へ私たちの注意を促し続けます。同じ真実について語る多くの素晴らしい人々(トニー・パーソンズ、ベルナデット・ロバーツ、アディヤ・シャンティ、バイロン・ケイティ他)についても、すべて彼女から教わりました。
Ascending doesn't cause the Ascendant. Ascending is the Ascendant. (アセンションすることがアセンダントを起こすのではない。アセンションすることそのものがアセンダントなのだ)と彼女は教えます。アセンダントというのはイシャヤ用語ですべてなるもの、すべての存在の源を指します。
そりゃそうです、瞑想や祈り、修練が”すべてなるもの”を起こすわけがない。すべてのmovement=動の源泉はすべてなるものなのですから。ですが、”私”というセンターがあって、それが人生の舵を取っている、と信じているときには、すべては反対に感じられます。”私”の集中力が、理解が高まったから、精進したからすべてなるものにアクセスできる力を得た、と考えます。特にこれが神秘体験を伴うときには始末が悪いです。”私”というエネルギーはspecial(特別)であることが大好きですから、その体験にしがみつきますし、それは瞑想によって起こった、私の瞑想力が上がったから起きた、と主張します。そしてもう一度同じ体験を、もっと強い体験を、と欲を出します。
こういった溝に陥るたびに、カーリーは、ときには優しい言葉で、ときには辛辣な一言で(あるいは冷たい一瞥で・笑)、あるいはシンプルな指摘で、私の軌道修正をしてくれました。”航海しているとき、大海にあってはたった一度の羅針盤のずれは大したことに思えないけれど、そのたった一度のずれが、私たちを全く違う岸に導く結果になる”と彼女はよく言います。
彼女は私にとって、もっともクリアな鏡です。不安が湧いたとき、また自信が湧いたとき、彼女にそれを投げかけてチェックします。そうして静かに無人に帰ります。彼女に出会えたことは、本当に幸運であったと思います。