B君が長年の修行と献身の結果、身につけたものでもありません。
Cちゃんがいい子だった時に、人から与えられたものでもありません。
有名な聖人だけが、マスターだけができることではありません。
ごく当たり前な、すべてのあり方です。
生命の単純な事実です。
ですが、誰かが”無条件の愛”なるものの特別さを語り、私たちが特別注意を払うようになると、
”愛”という言葉にまとわりついたすべての概念、過去の印象が、様々なイメージを作り出し、無条件の愛を素敵に条件化します。
”こういうのは無条件の愛じゃない”
とか。
”無条件の愛じゃないといけない”
とか。笑
そんなことが自由に起きるがままの無条件さは、軽〜く見過ごされます。
ダグラス・ハーディングは、そんな見過ごされがちな事実を、飾りなく、事実として表現します。
彼のキリスト教に関する表現は、これまで私が読んだものの中で、最も美しいものの一つです。
個人が、キリストが”する”のではない無条件の愛。
個人には”できない”無条件の愛。
事実として、今この瞬間に、あなたのために私が消えている事実。
そして、”過去の栄光”を掲げずに、毎瞬間確認する彼の真摯さ。
生命の源泉、”それ”、唯一なるもの、神、なんでもいいんですけど、それを”わかる”ことができない以上に、わかったのだ、という自信を持つことは不可能です。
でもそういった”体験”と”それ”そのものを混合して、過去の体験を語り続ける、
思い続ける、ということはしごく簡単に、頻繁に起きることです。
60年、なんて気が遠くなるような長い年月、ただ”それ”を見つめることに心を傾け、
そしてなお、人に何かを聞かれた時に、
”ちょっと待って、今確認してみるから”
ああ・・・・その本物さには、本当に心を打たれます。
インタビューを読んで、その美しさに心が震えたのは1年前。
前にも書いたような気がしないでもないけど・・・
今日も改めて、感謝がわいています。
今日も改めて、感謝がわいています。