教師養成コースを卒業した、1ヶ月後のことです。
当時は我が師カーリーの家の近所に住んでいたこともあり、コースで教える内容について新しく思いついた案を見てもらうべく、家に来てもらいました。
そして、講義をやって見せたところ、
”Never settle" というフィードバックを受けました。
決して適当なところで腰を下ろしちゃダメよ、
何があっても安易に落ち着いちゃダメよ、
とでも言ったらいいでしょうか。
案は新しいものでしたが、その中に、”Aというのはこういうものである”、的な結論が持ち込まれていた点についての指摘でした。
”悟りというのはこういうものである”
とわかることが、言えるようになることが到達点なのだ、と思っていたのが反映されていたのだ、というのが、振り返るととてもよくわかります。
これは教師という役割を得たから、そういう到達点を想像していた、というものでもないんですね。それよりもっと深い習性です。
マインド、あるいは”私”という感覚は、どうしようもなく安心を求めています。
もうわかったのだ、と言えること、
信じられること、
極めたのだ、と言えること、
証明できること、
認めてもらえること、
宣伝できること、
それによって、もう探さなくてもいいのだ、と思えること。
もう探さなくていいのだ、と思えること。
を、必死に求めています。
そしてここだ、あー ここだ、と、
次から次へと止まり木を見つけては、そこに腰を下ろそうとします。
マインドには、止まるには理由がいらない、ということがわかりません。
止まるには、なにも必要としないのだ、ということがわかりません。
むしろ、”止まり木”がある限り、その嘘に伴う不安感がつきまとうのだ、
という事実には、必死に目をつぶり続けようとします。
あれから2年経って、そんなマインドの習性の深さをさらに痛感します。
探すのをやめることは、今この瞬間に一瞬にしておきます。
すべてから、一瞬にして、立ち去る、ということが起きます。
もっとも頼りにしてた、頭の声から。
もっとも真実だと、心の拠り所にしていた、その思いから。
馴染みのある、一切の思考、感覚から。
思っているよりも、ずっと深くしがみついている、そのすべてから立ち去ると、
真っ裸で歩いているような心もとなさがあります。
そして、すべてがただ、ありありと、存在しています。
不安の入る余地もなく。ある意味、幸せの入る余地もなく。
それは、例えようもない幸せです(^^)。
わかる、わかった、と思う限り、底なし沼が待っています。
”決してわからないのだ”という定義をかざすのも、同じ。
それでいながら、毎瞬間、まちがいなく、否定しようもなく、
”それ”であり続けている、私たちの、生命の不思議。
わからない、というのには、嘘すぎる真実がそこにはあります。
************
イシャヤのアセンション 東京および長野コースのご案内はこちらから
2016年3月17日木曜日
2016年3月14日月曜日
誰もが、一番よく知っていること
先月、もう少しでアセンション、”お子様クラス”を教えることができるところだったのですが・・・
残念ながら、お母さんの熱い要望に反して年長の子が拒否し、ドミノ効果が起きたため、お教室は起きませんでした(^^)。
ざ〜んね〜ん〜
さて、お子様クラスの準備をしていた時、私の心をちょいと悩ませたのは、
”小さな子供にどうやって’それ’の話をするか”
ということでした。
このブログに書いているような語彙は、まず役立たずでしょう。
そもそも、小さなお子様たちは、’それ’なんて求めてるのか??
どんな風に共通の地盤を見つけたらいいんだろう?
・・・う〜む・・・
何人もの小さなお子様たちに教えた経験を持つ、我が師カーリーにそれを質問したところ、
”何言ってんの、この勘違い娘は”
という露骨に痛い視線とともに、
「誰も’それ’を教えてもらう必要がある人なんてないのよ。自分が何ものであるか、というのは、誰もが一番よく知ってることなんだから。」
という返答がすかさず、鋭く返ってきました。
我が師カーリーは、実用的なアドバイスは余すところなく与えてくれます。
ただし、根本的な勘違いの匂いがした場合には、絶対に見過ごしません(^^;)。
ありがたいことです。
皆が”知ってる”、かどうかは別として、、、、
知ってると”思ってる”かどうかは別として、
どうしたって、誰もが、例外なく、どうしようもなく、”それ”そのものである、というのはもう、揺がしようもない事実です。
皆、どう考えてるかに関係なく、’それ’してる(^^)。
それ以外でありえないから。
私たちがしているのは、せいぜい、一緒に思い出す時間を過ごすこと。
************
イシャヤのアセンション 東京および長野コースのご案内はこちらから
残念ながら、お母さんの熱い要望に反して年長の子が拒否し、ドミノ効果が起きたため、お教室は起きませんでした(^^)。
ざ〜んね〜ん〜
さて、お子様クラスの準備をしていた時、私の心をちょいと悩ませたのは、
”小さな子供にどうやって’それ’の話をするか”
ということでした。
このブログに書いているような語彙は、まず役立たずでしょう。
そもそも、小さなお子様たちは、’それ’なんて求めてるのか??
どんな風に共通の地盤を見つけたらいいんだろう?
・・・う〜む・・・
何人もの小さなお子様たちに教えた経験を持つ、我が師カーリーにそれを質問したところ、
”何言ってんの、この勘違い娘は”
という露骨に痛い視線とともに、
「誰も’それ’を教えてもらう必要がある人なんてないのよ。自分が何ものであるか、というのは、誰もが一番よく知ってることなんだから。」
という返答がすかさず、鋭く返ってきました。
我が師カーリーは、実用的なアドバイスは余すところなく与えてくれます。
ただし、根本的な勘違いの匂いがした場合には、絶対に見過ごしません(^^;)。
ありがたいことです。
皆が”知ってる”、かどうかは別として、、、、
知ってると”思ってる”かどうかは別として、
どうしたって、誰もが、例外なく、どうしようもなく、”それ”そのものである、というのはもう、揺がしようもない事実です。
皆、どう考えてるかに関係なく、’それ’してる(^^)。
それ以外でありえないから。
私たちがしているのは、せいぜい、一緒に思い出す時間を過ごすこと。
************
イシャヤのアセンション 東京および長野コースのご案内はこちらから
2016年3月3日木曜日
無条件の愛
無条件の愛は、A さんが実行するものではありません。
B君が長年の修行と献身の結果、身につけたものでもありません。
Cちゃんがいい子だった時に、人から与えられたものでもありません。
有名な聖人だけが、マスターだけができることではありません。
ごく当たり前な、すべてのあり方です。
生命の単純な事実です。
ですが、誰かが”無条件の愛”なるものの特別さを語り、私たちが特別注意を払うようになると、
”愛”という言葉にまとわりついたすべての概念、過去の印象が、様々なイメージを作り出し、無条件の愛を素敵に条件化します。
”こういうのは無条件の愛じゃない”
とか。
”無条件の愛じゃないといけない”
とか。笑
そんなことが自由に起きるがままの無条件さは、軽〜く見過ごされます。
ダグラス・ハーディングは、そんな見過ごされがちな事実を、飾りなく、事実として表現します。
彼のキリスト教に関する表現は、これまで私が読んだものの中で、最も美しいものの一つです。
個人が、キリストが”する”のではない無条件の愛。
個人には”できない”無条件の愛。
事実として、今この瞬間に、あなたのために私が消えている事実。
そして、”過去の栄光”を掲げずに、毎瞬間確認する彼の真摯さ。
生命の源泉、”それ”、唯一なるもの、神、なんでもいいんですけど、それを”わかる”ことができない以上に、わかったのだ、という自信を持つことは不可能です。
でもそういった”体験”と”それ”そのものを混合して、過去の体験を語り続ける、
思い続ける、ということはしごく簡単に、頻繁に起きることです。
60年、なんて気が遠くなるような長い年月、ただ”それ”を見つめることに心を傾け、
そしてなお、人に何かを聞かれた時に、
”ちょっと待って、今確認してみるから”
ああ・・・・その本物さには、本当に心を打たれます。
インタビューを読んで、その美しさに心が震えたのは1年前。
前にも書いたような気がしないでもないけど・・・
今日も改めて、感謝がわいています。
今日も改めて、感謝がわいています。
Labels:
ダグラス・ハーディング,
神様はここにいる
登録:
投稿 (Atom)