「おお、それはいい質問だ。答えは”いいえ”。仮に悟りが何かであるとするなら、悟りは進化からの逸脱だ・・・というか、私にはその質問が個人の生まれ変わりについて聞いているとも、種としての進化について聞いているとも取れるが、いずれにしても答えは同じだ。進化というのは変化についての話であり、悟りというのは真理、すなわち不変のものについての話だ。進化というのは日常の存在より、より大きな背景で起きることだが、それでもまだ、二元的な脈略の中に閉じ込められている。言い換えると、進化、成長、発達、変化、なんでもいいがそういったものは全て、二元的な存在のドラマチックな出来事の一部だ。悟りはそうではない。」
ジェッド・マッケナ『Spiritually Incorrect Enlightenment』
********
ある時、”自分”と思ってるレッテルのすべてを放り捨て、捨て続けて気がつくと、意識が自分の存在を胎児までさかのぼっていました。そのまま意識は遡り続け、胎児としての形が形成されるより前まで行って、、、するとそこに、胎児としての形が形成される前に、”何か”があるのがわかりました。
意識はそこからそのまま線を逆になぞるように今に戻ってそれを通過し、先へ先へ、体が衰え、機能を止めるところまで向かいました。するとそこでも同じ”何か”が残るのがわかりました。
”あ!”と思いました。
その発見、あるいは気づきに喜んだ後、確信しようとして失って、、、、
しばらくしたある時、たとえ今、原爆戦争が起きて、私たちが世界と呼ぶもののすべてが完全に破壊されても、まったく影響されないものがある、というのをはっきりみました。
”ああ”と思いました。
自分の中では否定しようのない、はっきりした認識だったけど、口にして人に伝えたら、なんともオオボケな感じがするなぁ、と思いました(でも話したけど^^)。
そうしてその認識が薄れた頃のある日の夕方、散歩の途中、野原にあった大きな木を見上げた瞬間に、頭の動きが完全に停止し、”私”の動きが一切止みました。周り中のすべてはただ存在してー風と木と体と草と、土と、ただ佇むこととーすべてがそのまま、一切の名称も解説をも与える隙なく、ただ在りました。
後付けで解説を加えるなら、自分と周りに一切の区別がなかった、とか言ってもいいんでしょうが、そう言った言葉や描写の入る隙のない在り方でした。
数秒後に、その懐かしさが認識されました。
それは新しい発見でも経験でも悟りでもない、子供の頃、ふつうだった世界の在り方でした。
そうして”たとえ原爆戦争が起きても、まったく影響されないもの”
”自分が生まれる前にもあって、(もちろん今もあって)死んだ後にも残るもの”
に目が止まっても、変化に心をさらわれることは続きました。
”いつでも変わらず在るもの”
よりも、それに気づいた過程や、その余韻の方に心を奪われ、それをとどめようとして失望や喪失感、自分の不出来感を味わいました。
でも”それ”を新たに思い出したことで、”私”に燃料を注ぐことはどんどんと減り、代わりに”私”のガス抜きが加速されました。
力みが衰えて、抜けていくうちに、一所懸命探してきたものは、思っていたのとまったく逆に、どんなに努力しても失えないものだとわかりました。
存在のすべてにおいて、最も努力なく、手に入っちゃってるもの。
どうやっても離れることも、失うこともできないもの。
そしてどうやっても、定義・特定できないもの。
”わかった!”ー”私”が言いたくてたまらない、あの一言が適用できないもの。
まったく変わらないものに意識が返ることで、進化から逸脱するという見かけの変化が起きるのは、パラドックスとしか言いようのない、喜劇だなぁと思います。
・・・ううう。風邪で頭ボケボケ。