ジェッド・マッケナという人の本の中で、彼がマヤと話をする、美しい場面があります。
マヤというのは、サンスクリッド語で、私たちの思うところの現実世界を表します。
私たちの思うところの・・・
つまり、真理と呼ばれるものの上にかぶった、薄いベールのような幻想世界のことです。
マヤの作り出す世界(この世界のすべて)はとてもは巧妙で、抜けたと思ってもすぐに絡め取られてしまう、
その美しいマヤとジェッドの、幻想に満ちた無言の会話。
なんとも魅惑的であったのを覚えています。
さて、そのマヤが剥がれるときーーー
これまで何の疑問もなく信じていた、
信じていると気づく隙すらなく反応していた現実に気づきがおとづれ、
はらり、とそれが剥がれると、、、
”人”の終わりがやってくるのが見えます。
そしてそこには、なんの例外もないことがわかります。
好みの思考は残して、苦しかったものだけ手放される、
なんてことはありません。
落ちるときはすべて、例外なく、容赦なくおちます。
しかもそれは芽が吹くように、花が咲くように、
まったく勝手に起きることで、何ものにも操作の余地はありません。
そんな可能性はまったくありません。
それが静かに訪れるのを、静かにハッとしながら見ています。
驚くほど静かで、劇的なものは一切ありません。
人の意識には、大きく大別して、眠っている状態、起きている状態、
夢見ている状態という3つの状態がありますが、
起きている時にも、かなりの時間を夢見て過ごしていることに気づきます。
マヤから離れると、生命の現実に隙間なく寄り添うことが起きます。
それはとどめることも、味わう余裕も、観察する隙間もない脈動する出来事です。
どこに向かっているのか、何が起きているのかなんて疑問は、
一切の価値を失います。
生命は、ただばくばくと、脈打ち、生きます。