たんに普通に、生きるのが忙しくてご無沙汰しましたm(_ _)m。
死、なんて始めておきながらなんですが。
仏教徒は仏教の教えが、キリスト教徒はキリスト教の教えが、同じ真理に反射するのを見るんだよ、
なんて私の親しい人が言ったことがあります。
その美しさにハッとしたのを覚えています。
そしてその事実に繰り返し打たれています。
私の場合はたまたま、アセンションと呼ばれる瞑想法になりますが、それを通して示されるものを、同じ木霊を、あちこちにみます。
ダグラス・ハーディングもその一人です。
ダグラスの言葉には、これ以上ない美しさと真摯さ、生への感謝が溢れていて、非常な共振を起こさせるものがあります。
自分と思っていた条件がゆるんでゆるんで、誰でもない自分を知れば知るほど、すべてのことにやたらな感謝がわいてしまうのは、もうどうしようもないことであると、体感しています。彼の表現には、それが溢れています。
キリストの教えに関する彼のコメントも、同じくとてつもなく美しいものです。
『自分とは何かを知ることは、死を意味する。』だから人は”それ”を恐れる。抵抗する。『たとえその直後に復活が続いていても。』
”私”が死ぬたび”すべてなるもの”がよみがえる・・・・
その事実と美しさ。
”私”のしぶとさを語るとき、その”復活力”のすごさが話題になったりはよくしますが、その手前、その寸前に起きている、”真のよみがえり”は、すいと素通りされていたりします。でもこのすべてが死に絶える瞬間、ただ命なる、あの限りないものがあらわになる瞬間・・・すべてが消え入り、すべてがただあるあの・・・すべてが止まることで、すべてがあらわになるあの 静。
そこにすべてがあります。
それにはほんの一瞬、心が止まるだけでいい。
内でもない、外でもないものに、つっと何かが・・・意識なんて呼ばれるものがふいと向かうだけでいい。
他に必要なものは何一つない。
準備もいらない。練習もいらない。
そして同時に、
『自分を見るのは簡単である。
だけど、常に するのは難しい。』
常にみるのは修行でも、覚悟でもない、”見た”ことから自然に起きる、副作用みたいなものだと感じています。そもそも、みたいという衝動じたい、どこから勝手にやってくるのか、誰もわかってなどいないでしょう。
ゴールのない瞑想(笑)アセンションをしまくって、すべての音量が最大になるというか、なにがなんだかさっぱりわからないすごさの中にあるという、素晴らしい週末を過ごしました。
そしてそれについて書くのかと思ったら、ずーっと前から心にとまっていたダグラスの話が、唐突に出口を見つけて出て行ったみたいです(^^)。よかった、よかった。ははは。