目覚めることには実際のところ、ご褒美はありません。
確かに、かつて”私”中心で生きていた(エゴ主体で生きてきた)時に比べると、
人生は自然に流れ、格段に楽だと言えます。
ただしそれは、辛い思いをしないのではなく、
不快なことが起きないのでもなく、
むしろただ、不快なままでいられる、というに過ぎません。
私、私の感じること、私の満足感、といったものの重要性が
限りなくゼロに近くなっていくことで、
自分の体験の質やら、感覚やらが大事じゃない、
よくても悪くても大事なことと思えなくなる、というだけです。
2018年11月20日火曜日
2018年11月18日日曜日
夢を見ている主はいるのか
もし私たちが正直に、じっくりと、ありのままを観察するなら、
私たちは刻々と変化するものの複合体・集合体であり、
身体も、感覚も、思考も、環境も、
私たちにまつわるものはすべて、常に変化していることに気づきます。
刻々と変化するものは現象であり、実体がある、とは言えません。
かろうじて言えるのは、”今起きている”、ということだけ。
私たちが私、と呼ぶものは、
それが身体でも、感覚でも、思考でも、感情でも、
今起きている状況について、かろうじて、
”こういう感じがしてる”
と言えるだけ。
しかもそれは、捉えた時にはすでに過ぎ去っており、
ましてや口に出す時にはとっくの昔に終わっています。
だから実際には、その曖昧さといったら例えようもないもので、
”今こう思った(・・・と、思う)”
”今こう考えた(・・・と、思う)”
”今こう感じた(・・・と思う /思ったんだけどね・・・)”
ぐらいの頼りなさです。
もし、自分をしっかりと、はっきりと観察するなら。
意識、気づきですら、現象であることに気づきます。
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