2018年10月30日火曜日
変わるものの話じゃなく
”私”たちはたゆみなく変化する要素の複合物です。
体、
感情、
感覚、
気分、
意見、
思考、
等、諸々を含めた”私”の経験は、日々刻々と、瞬間瞬間変化します。
常に変わりゆくのが性質であるものを変えようとすること、ある種の状態や形にとどめようとすることには、一切意味がありません。
・・・が、私たちのほとんどが、どれほどの時間とエネルギー、労力をそれに費やしてきたでしょう。
あるいは今も費やしていることに気づくかもしれません。
”こんな私になりたい”
”こんな癖を直したい”
”こうあるべきだ”
”こうあるべきじゃない”
”人間関係を改善したい”
”生活環境を改善したい”
でももし、私たちの興味が存在としての本質を知ることであるなら、
あるいはすべてのものの変化する性質と、変化するものを操作しようとする努力の無意味さに、賢く本当の意味で気づいたら、
あるいは単純に、”私”のゲームに十分に疲れたら、
変えることへの努力を一切捨てて、これまでのあらゆる努力の間、まったく変わらないでいたものは何か、というところに目を向けます。
色々な人が、どうやったら”私”を変えられるか、”経験”を変えられるか、様々なアイデアやテクニック、思想を教えてくれますが、
時間を無駄にしたくなかったら、
エネルギーを無駄遣いしたくなかったら、
変化ではなく、不変のものを指差してくれているものだけを探します。
だって実際のところ、いつまでも生きている保証はないんですから。
この限られた体としての存在、経験の中で、
あなたがたった一つ求めているものはなんでしょうか。
たった一つだけ、知っておくべきことはなんでしょうか。
たった一つだけ、実現したいことはなんでしょう?
それを突き詰めよう、と思っても、
じっとそれと向き合うことができないのはなぜでしょうか。
どんな言葉や経験に深く心を打たれても、
そこからどんな強い決意をしても、
次の瞬間に、数時間後に、数日後にー
いとも簡単にまったく違う方向に流れてしまうのはなぜでしょう?
”私”は変化する媒体でしかないからです。
その変化と経験を、いつも認識しているもの、に興味があったら、
動くものへの興味を諦めます。
2018年10月4日木曜日
静寂、あるいは沈黙の軌跡
最近、バーナデット・ロバーツの”The Path to No-Self"(邦題:『神はいずこに』)を読み終えました。
チラチラとほぼ全体を読んではいましたが、これまではつまみ食いで、初めから終わりまで通して読んだのは、今回が初めてです。
改めて、素晴らしい本でした。
バーナデットは、Silence(静けさ、静寂、沈黙)を表現し続けます。
その表現は非常に的確で、彼女の最初の本、"The Experience of No-Self"(邦題:『無我の経験』)の冒頭で彼女が言ったように、様々な種類・レベルの静寂に、深く馴染んでいるのが伝わります。
これにはもちろん、彼女がカルメル会の修道女であったことも、彼女の子供の頃からの体験に加えて大きく関係します。カルメル会は祈りと観想(あるいは念祷)に、重きを置いています。
”もし私の観想の経験を軌跡とする道があったとしたら、それはこの、限りなく広がり、深まり続ける沈黙(静けさ)の道であったでしょう。”
わかりづらいかと思いますが、
献身を通して目覚めに至る道、
ハートを通して目覚めに至る道、
知恵を通しての道、
聖者の道、
云々、というのを、きっとどれか一度は聞いたことありますよね?
自分が目覚めに至った歩みを表現する道があるとしたら、それは限りなく広がり、かつ深まっていく静寂(沈黙)の道であった、と言っているわけです。
はぁ・・・美しい。
すべてのものの背後にある、”それ”を表す表現を思うとき、
学生時代に遠藤周作の『沈黙』にとても強いインパクトを受けたので、
私は沈黙、という言葉は好きです。
状況によっては、重たい印象も浮かび得る言葉ですが、私にとっては’沈黙’、という言葉に連動して、小石を静かな池や湖に落とした時のような静けさが、自分の内に波紋のように広がります。
外に広がるというよりは、内に沈むような動きです。
’静寂’という言葉に比べると、’沈黙’は誰かが黙っている、誰かが口を閉ざしている、
という、背後に行為者の印象を与えますが、
言葉をきっかけに、それが指してくれている先に、限りない、深い静寂に身を任せると、
’沈黙’、という言葉の後ろに暗示されている’行為者’が、即座に消え去ります。
内に向かった動きも、方向性や焦点を失って何も残りません。
’静けさ’とか’静寂’はどうでしょう。
何か音を立てていたもの、音を立て得るものが静まっている印象を受けます。
静けさや静寂には’動’や’音’の予感を感じます。
”それ”が孕んでいる生を匂わせる表現です。
沈黙、あるいは静寂には、環境的なものもあります。
なかなか気づきづらいのは、”音(動き)の中にある静寂・沈黙”です。
音や動きがあると、私たちの注意はそこにいくのが普通ですから、その周囲に変わらずあるーまたは、音を可能にしている静けさは、見過ごしがちです。
これは環境的な音でも、頭の声でも一緒です。
瞑想を始めたての頃は、周囲がうるさいくて集中できなかった、思考が湧いて集中できなかった、瞑想できなかった、
なんてよく考えますよね。
でもほんのひとたび、音を可能にしている静けさの存在を指摘されると・・・
簡単にその静寂に、”視線が合って”しまう。
この沈黙は人工的なものではなく、すべての生命を孕んでいるから、
どんな嵐の真っ只中でも消えることはないんですね。
一度思い出すと、視線は簡単に戻る。
それが本来、自然なことだから。
限りなく深まる沈黙・静寂に彼女と共に身を浸していくような、本当に贅沢な時間でした。
チラチラとほぼ全体を読んではいましたが、これまではつまみ食いで、初めから終わりまで通して読んだのは、今回が初めてです。
改めて、素晴らしい本でした。
バーナデットは、Silence(静けさ、静寂、沈黙)を表現し続けます。
その表現は非常に的確で、彼女の最初の本、"The Experience of No-Self"(邦題:『無我の経験』)の冒頭で彼女が言ったように、様々な種類・レベルの静寂に、深く馴染んでいるのが伝わります。
これにはもちろん、彼女がカルメル会の修道女であったことも、彼女の子供の頃からの体験に加えて大きく関係します。カルメル会は祈りと観想(あるいは念祷)に、重きを置いています。
”もし私の観想の経験を軌跡とする道があったとしたら、それはこの、限りなく広がり、深まり続ける沈黙(静けさ)の道であったでしょう。”
わかりづらいかと思いますが、
献身を通して目覚めに至る道、
ハートを通して目覚めに至る道、
知恵を通しての道、
聖者の道、
云々、というのを、きっとどれか一度は聞いたことありますよね?
自分が目覚めに至った歩みを表現する道があるとしたら、それは限りなく広がり、かつ深まっていく静寂(沈黙)の道であった、と言っているわけです。
はぁ・・・美しい。
すべてのものの背後にある、”それ”を表す表現を思うとき、
学生時代に遠藤周作の『沈黙』にとても強いインパクトを受けたので、
私は沈黙、という言葉は好きです。
状況によっては、重たい印象も浮かび得る言葉ですが、私にとっては’沈黙’、という言葉に連動して、小石を静かな池や湖に落とした時のような静けさが、自分の内に波紋のように広がります。
外に広がるというよりは、内に沈むような動きです。
’静寂’という言葉に比べると、’沈黙’は誰かが黙っている、誰かが口を閉ざしている、
という、背後に行為者の印象を与えますが、
言葉をきっかけに、それが指してくれている先に、限りない、深い静寂に身を任せると、
’沈黙’、という言葉の後ろに暗示されている’行為者’が、即座に消え去ります。
内に向かった動きも、方向性や焦点を失って何も残りません。
’静けさ’とか’静寂’はどうでしょう。
何か音を立てていたもの、音を立て得るものが静まっている印象を受けます。
静けさや静寂には’動’や’音’の予感を感じます。
”それ”が孕んでいる生を匂わせる表現です。
沈黙、あるいは静寂には、環境的なものもあります。
なかなか気づきづらいのは、”音(動き)の中にある静寂・沈黙”です。
音や動きがあると、私たちの注意はそこにいくのが普通ですから、その周囲に変わらずあるーまたは、音を可能にしている静けさは、見過ごしがちです。
これは環境的な音でも、頭の声でも一緒です。
瞑想を始めたての頃は、周囲がうるさいくて集中できなかった、思考が湧いて集中できなかった、瞑想できなかった、
なんてよく考えますよね。
でもほんのひとたび、音を可能にしている静けさの存在を指摘されると・・・
簡単にその静寂に、”視線が合って”しまう。
この沈黙は人工的なものではなく、すべての生命を孕んでいるから、
どんな嵐の真っ只中でも消えることはないんですね。
一度思い出すと、視線は簡単に戻る。
それが本来、自然なことだから。
限りなく深まる沈黙・静寂に彼女と共に身を浸していくような、本当に贅沢な時間でした。
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