あるレストランで、黒人の小さな男の子に意識がすいよせられた体験があります。
その子はごく普通の、何ら特別なところもない男の子だったのですが、
3−4歳くらいの感じだったかな?
すべての行動、ただフォークを取る、食べる、何かを見る、
その一つ一つが全身全霊で起きているというか、
”隙間が一つもない”、という感じで、
その隙間のない生には、ビリビリするような強烈な存在感が溢れていました。
なんてことない、食べる、見る、お母さんを引っ張るーそんなことだけなんですが、
その一挙一動が、強烈な生そのもので、目を離すことができませんでした。
まだ小さいから?
なんて思ってみたりもしたんですが、あたりを見渡しても、他の赤ちゃんや小さい子には、同じものが見られませんでした。
彼のお母さんも、まったく普通で、そんな強烈さはありませんでした。
無心に、ただ何かをする
やっていることに埋没している
ただ生が起きている状態というのは、もともと当たり前の生き方だったなぁ、
ということを思い出します。
起きていることへの評論家は、後から訓練して育て上げたもんだったよなぁ、
ということに気づいたりします。
昔は”ただ生きる”、なんて言葉は、聞いただけで退屈さで死んでしまいそう、
なんて気がしてました。
ちょっと前までも、やっぱりそう思っていました。
だからスピリチュアリティでよく語られる、神秘的な体験や、特別さを、とても大切に思っていました。
でも”それ”がしっかり意識にとまった時、その認識はすっかり変わってしまいました。
ただ生がおきること、の中には、余分な苦しみがありません。
それはマインドが思うような無機質で味気ないものではなく、むしろ無駄のない躍動感に溢れた、見事なものです。
ただ在ること、ただ起きている生には自意識がありません。
そこには、誰かが”自然に生きよう”とするような努力が入る隙はありません。
シンプルさには、命がけで取り組むことなどできません。
自然さに返るのに、情熱を持ち込む隙などありません。
ただ、息がおきる
ただ、音がおきる
ただ、歩くことが起きる
できることなどないままに、すべてはすでに起きている。
”もっと’それ’に意識を向ける”
という楽しい夢想の裏側で、魔法はとっくに起きている。
どこかで、私のものでもなんでもない、ただの意識が、その現実に追いつきます。
”それ”、が
”これ”よりもっと近く、
名付ける隙などない近くで
見てみることなどできないくらい、そのものであることに気づきます。
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