2015年8月24日月曜日

スピリチュアルな暴力

『スピリチュアルな人っていうのは、もっとも暴力的であったりする。

そういう人たちは主だって、自分に対して暴力的である。 
自分のマインド、感情、体をコントロールしようと暴力的な努力をする。
条件づけられたマインドが信じる、あるべき悟りの姿に達することができないといって自分に腹を立て、自分を鞭打つ。

そんな暴力を通じて自由に達する人などいない。』(アディヤシャンティ)

(Spiritual people can be some of the most violent people you will ever meet. Mostly, they are violent to themselves. They violently try to control their minds, their emotions, and their bodies. They become upset with themselves and beat themselves up for not rising up to the conditioned mind's idea of what it believes enlightenment to be. No one ever became free through such violence. )

最近、どんなに目についても自然と素通りばかりしていたアディヤのFBですが、これには実感を伴うものがあって、しっかり立ち止まりました。


すでに思い浮かんで、とっくに去ってしまった思考について、
「こんなことを考えたなんて」
と自分を責めまくる。

記憶なんて、あてにならない古い思考をもとに、過去の行為、発言について
自分をののしる。

どうしてもっと早く、もっと高く、もっと素晴らしくならないのか。

うーむ、、、誰が私に一番意地悪って、わ・た・し、でした。


『自然であること、楽に、努力をしないことが肝心なんだよ』
という瞑想法を教わっても、強引にそれを使って自分を鞭打ち続けていたし(^^)。

だけどそんな乱暴さも、1秒早くも、1秒遅くにも終わらなくて。

気がつくと、もっと力が抜けて、もっと抜けて、抜けてきたけど、
それは本当に、なんの努力によるものでもないんですね。

そして”それ”は、

力が入っていても、
力が抜けていても、
自分に暴力的であっても、
自分に優しくあっても、

そのすべてであって、一切関係ない、という。

なんという、無条件な。

かつては”きっとこう”、”こういうもののはず”、
というものを探し追い続けていましたが、

”これはどこ?”
というもの探しから、

”一番探さないでいつもあるものはなに?”

”もっとも努力しないで、手に入る・・・手に入りっぱなしで失いようのないものはなに?”

という確認に変わり。

その確認はまいしゅん新鮮であり続けるという、

素晴らしいいのちの魔法があります。

2015年8月10日月曜日

死と復活と 

たんに普通に、生きるのが忙しくてご無沙汰しましたm(_ _)m。
死、なんて始めておきながらなんですが。

仏教徒は仏教の教えが、キリスト教徒はキリスト教の教えが、同じ真理に反射するのを見るんだよ、

なんて私の親しい人が言ったことがあります。

その美しさにハッとしたのを覚えています。

そしてその事実に繰り返し打たれています。

私の場合はたまたま、アセンションと呼ばれる瞑想法になりますが、それを通して示されるものを、同じ木霊を、あちこちにみます。

ダグラス・ハーディングもその一人です。

ダグラスの言葉には、これ以上ない美しさと真摯さ、生への感謝が溢れていて、非常な共振を起こさせるものがあります。

自分と思っていた条件がゆるんでゆるんで、誰でもない自分を知れば知るほど、すべてのことにやたらな感謝がわいてしまうのは、もうどうしようもないことであると、体感しています。彼の表現には、それが溢れています。

キリストの教えに関する彼のコメントも、同じくとてつもなく美しいものです。

『自分とは何かを知ることは、死を意味する。』だから人は”それ”を恐れる。抵抗する。『たとえその直後に復活が続いていても。』

”私”が死ぬたび”すべてなるもの”がよみがえる・・・・

その事実と美しさ。

”私”のしぶとさを語るとき、その”復活力”のすごさが話題になったりはよくしますが、その手前、その寸前に起きている、”真のよみがえり”は、すいと素通りされていたりします。でもこのすべてが死に絶える瞬間、ただ命なる、あの限りないものがあらわになる瞬間・・・すべてが消え入り、すべてがただあるあの・・・すべてが止まることで、すべてがあらわになるあの 静。

そこにすべてがあります。

それにはほんの一瞬、心が止まるだけでいい。

内でもない、外でもないものに、つっと何かが・・・意識なんて呼ばれるものがふいと向かうだけでいい。

他に必要なものは何一つない。

準備もいらない。練習もいらない。

そして同時に、

『自分を見るのは簡単である。
だけど、常に するのは難しい。』

常にみるのは修行でも、覚悟でもない、”見た”ことから自然に起きる、副作用みたいなものだと感じています。そもそも、みたいという衝動じたい、どこから勝手にやってくるのか、誰もわかってなどいないでしょう。

ゴールのない瞑想(笑)アセンションをしまくって、すべての音量が最大になるというか、なにがなんだかさっぱりわからないすごさの中にあるという、素晴らしい週末を過ごしました。

そしてそれについて書くのかと思ったら、ずーっと前から心にとまっていたダグラスの話が、唐突に出口を見つけて出て行ったみたいです(^^)。よかった、よかった。ははは。