”となると、人生において変化するのは私たちの神との合一ではなく、その経験の様態、その気づきのレベルである。従って、人は神との一体性により深く目覚める、始まりから不変で安定しており、最後までそうであるところの一体性に、より完全な形で気づいていく過程にあるのである。”
バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」
神、でもエネルギーでも、生命の根元でも、永遠なるものでも、なんでもいいのですが・・・
すべての現象を可能にしているものと私たちの一体性は不変であり、そうでなかったことも、そうでなくなることもありえない。それは子供時代からの幾多の神との統合の経験が実証している。
私たちに起きているのは、この変わりようのない事実を、様々な形で、あらゆる場面で、あらゆる瞬間に、より深く、より完全に気づいていく目覚めの過程である。
↑バーナデットの言葉の繰り返しです。
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私がアセンションに出会ったのは18年ちょっと前ですが、私の場合はアセンションを通して、いわば玉ねぎの皮が剥けていくような経験をしました。
これは人によっては日常の中で何のきっかけもなくただ起きたり、
離婚や、大病や、愛する人の死や、
あるいは結婚や、出産や、出会いや、旅や、仕事を通して起きたりもすることです。
たまたま、私の場合はアセンション。
人間関係、価値観、習慣、物、ものの見方、すべてを含め、人生において大切なものの順番が、あるとき(ある事)はゆったりと、あるとき(ある事)は盛大に入れ替わりました。
アセンションを通して何かを得たり、達成したりというのはありませんでした(中途では何度も、前よりこうなった、ああなった、と達成したように思ったけど)。
むしろ、一生懸命貯めて、必死になって抱えてきたものを、気づいたらどんどん捨て、忘れてる、といった結果になりました。
一番大事なことまで。
”それ(神、すべての根本、唯一のもの、エトセトラ)”がしっかり意識に止まった(と思った)とき、最初にしようとしたのは、
この状態なり、認識なりなんなりを、自分の中にしっかりと握りしめ、止めようとする事でした。
きっと繰り返していけば、定着する。安定する。
疑いようもなく、いつでもわかってる人になる時がくる。
キャリアとか、私をよくすることへの執着とか、そういったことはもはや手放したようである。残りのすべてを捧げてそこへ向かう・・・
と思い込んでいたのに。
”最終終着点”も、ただの仮想であったことが繰り返し示されて、
他と何も変わらないただ一枚の皮として、容赦なく、シュワっと剥がれてしまいました。
この間、同じ風景を何度も何度も眺めました。
”目覚め”の経験は、最初の頃の方がうんと華やかでした(^^)/。
だからそれについて話せることもたくさんあったように思います。
こんな経験起きちゃったの〜
あれがこんな風に見えちゃったの〜
反対側の経験も、それに比例して強烈でした。
また私、こんなことに怒ってるっっ
”それ”の感覚がなくなっちゃった、どうぢで?!
人生のおなじみのシナリオも、時を変え、登場人物を変え、何度も何度も繰り返されました。
だけどそれらの濃度が薄れていったというか。
あたかもそれぞれのことが、起きるたびにそれ自体をこすり落としていったような。
気にすることもなくなるに連れ、視界がだんだんひらけて行きました。
”決定的で揺るぎない結論”を持って、色々間違いのない判断ができるようになるのだと思ってたら、まったく意見なく、
”ただ見る”ということが起き出しました。
経験に対する興味が減って、それに連れてだんだん語れることが少なくなっていって、
”わかった度”よりは”わからない度”が増して行き・・・
でも、語ることは起きます。現にこうやって。長々と(^^;)
皆さんの景色はどんなでしょう?
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