ジェッド・マッケナ
”何かを読んでも、見ても、それが自分にとってどうなのか考えてみないのなら意味がない”というジェッドの言葉を、ふんふん、と”観客”として大いに賛同しながら読んだことを思い出します。
ジェッドの本はかなり辛辣で、皮肉やナルシシズムの響きが強く感じられる本なのですが、自分はジェッドと同じ”あちら側”に立っていて、ジェッドが話しかけている観客、”向こう”を彼と一緒に眺めているつもりでいました。
ははは。絶大な無知のなせる技。(^^)/
それは実際、ジェッドの本に限ったことではなく、アディヤの本でも、ニサルガダッタの本でも、映画でも、たいていは同じ立ち位置をとっていました。
バイロン・ケイティのワークを手にとった時も、CDを聞いたり、ビデオを見て感情移入は散々しても、ケイティに”同意”は散々しても、自分でペンを手にとってやってみるまで、自分に向かうまでには何ヶ月もかかりました。
今読み返すと、”これのどこをわかったつもりでいたんだろう?”と仰天することが多いです。無知の特典は自分はわかっている、と思うことですから、まぁ、避けようのなかったことですが。
”本当にわかっているのか?自分の経験ではどうか?”と、出会った言葉、インスピレーション、感銘とともに沈思、黙想、瞑想する時、真に自分にたぐり寄せる時、痛みを伴うような共感が湧くこともありますし、さらに深い洞察を得る瞬間もあります。
でもそこで止まらずに、さらに”自分”にたぐり寄せると、、、、
個としての”私”の共感、理解、洞察、さらなる質問といったすべてが消えます。
・・・・この神秘っぽい、思わしげな、何か特別なことがありそうな響きは嫌いなんですが、、、私の能力不足。
次に起きるのは、恍惚の波に襲われて公園のベンチに一年座ってた、
とかそんな極端なことじゃなくて、ふと気づくと、トイレに向かってるとか、ご飯食べる準備してるとか、そんな普通に”生きること”です。
隙間なく、行為が起きる、あるいは起きない。
いずれにしても散漫に観客として生きる中で、”夢”から覚めることはない。
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今年の教師養成コースが始まって、はや1ヶ月と1週間たちました。
去年のブログを読んでくださった方には、毎年あるイベントのように映るかもしれないのですが、トレーニングは不定期です。
たまたまたくさんの人が希望したので、一度にはできない、ということで二年に分割されましたが、最初に今年のコースを希望していた19人の人が最終的に参加できず、別の23人が参加する結果になりました。いつもながら蓋を開けるまで誰が参加するのかわかりません。
今年のグループはとても成熟している、大人なグループの感じがあります。今年は海外からの参加者が4人いて、さらに豊かな感じです。
10年以上前に参加するはずだったのが、今年来る結果になった人、コースが始まってから唐突に家を売り、車を売り、すべてを売り払ってコースに来る結果になった人もいます。
どうやっても観客でいることのできない環境を選んでやってきた皆に、深い敬意を表します。深い愛情、感謝の念と、痛いくらいの生々しい生に満ちたこの環境に今年もいられることに、深い感謝が湧いています。