”意識を越えようとするのではない。存在とは何か、ただ認識し、理解すればいいだけだ。”
”存在、意識、が神であり、生命の躍動とマインドの働きを観照する。それは干渉せず、ただ観照する。”
ニサルガダッタ・マハラジ
(観照とは何か、については、OSHOの言葉を引用しているこのブログがお勧めです。)
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なにもない虚空にしか見えないものに、ただ視線を置き続ける、というのはなかなかできることではありません。
しかもそれを常に行う、というのは並大抵なことではできません。
生命は動きですし、刻々と変わり続けるマインド / 思考の多様性、感情の上がり下がり、種々の身体・直感等の感覚は、味わい深く楽しいものです。真正直に観察するなら、私たちは苦しみや惨めさすら味わい、楽しんでいることに気づくでしょう。
生きることの醍醐味は、この飽くことない変化と多様性だと言っても過言ではありません。
それでもその楽しみのすべてを捨てて、それを味わっている本体はなんなのか、生命と呼ばれているものの本源なり、私というものの正体なりを突き止めようと思っちゃったりする人がいるわけです。
あなたが運悪く(あるいは運よく)、そんな人の一人だった場合、好むと好まざるとに関わらず、どこかでそちらに目が向くことになります。
求めているものが虚空のようにしか見えないことを、最初から認識して取り組んでいる人は稀でしょう。
エゴをおおむね卒業し、不安定なマインドに成熟が訪れるまで、様々なダンジョンを通って変化=経験をいくつも味わい、追い続け、楽しむことになります。
途中にはなんども真の目覚めがありますが、そこに目を据え続けることができる人は、これもまた稀です。
真の目覚めの反映である経験、どんな結果が得られたか、人になにを話せるか、に大抵は一瞬で心を奪われ、同じゲームの次のステージを目指します。
やがてどこかで運よく成熟が訪れた場合、すべてのゲームを完全放棄する決意が、どうしようもなくやってきます。
きっぱりと。
しかしこのきっぱりとした決意・覚悟の後ですら、マインドは揺らぎを止めることはありません。
でも正しい場所に視線を据え置き続けるなら、マインドの揺らぎをただ観照するようになります。
その動きと、不安定な性質をすっと認識するだけ。
そういう、本当にニュートラルな土壌にただあること、ニュートラルな土壌であることにだんだんと馴染みが育って行き、なお目を向け続けるようになる頃には、視線の発信源がないことがはっきりしています。
目を向けている元は限りない場そのものであり、特定できない。
目とは呼べない目が認識している対象、あたり中に常に広がるものもまた、特定できない。
五感でも、六感を通してでもなく知っているものを眺め、確かめ、研究し、そのつかめなさに身を任せていると、ふいに、
あ、
という瞬間があります。
あ、そっちが自分だ。
完全に疑いようのない、本体と知識の合体・一致があります。
天国の鐘がなることもありませんし、天使が舞い降りたり、いなづまが走ったりすることはありません。
恍惚もありません。
むしろあっけない、非常にそっけない、
なんだ、そっか。
というくらいのものです。
翌朝・翌日にはむしろ、それを特別化しようとするマインドの猛攻撃にあって、あのあっさりとした、しかし疑いようもなかった認識がどこかに消えてしまったような、なくなってしまったような気すらするでしょう。
ここであっという間にやめたはずのゲームのダンジョンに戻るか、淡々と目を向け続けるか、どちらが起きるかはその地点でのマインドの成熟度によります。
あなたの中の馴染みが強く育っていた場合、どんなに頭の中や心の中が沸き立っても、全く新しくまた目を向け続けるーわかる、わからない、といった思考に惑わされず、ただ目を据え続けることになります。
静けさに、どうしようもなく惹かれ続けることになります。
それだけをまっすぐ示してくれるものを察知して、それを指標にしつつ、ただ目を向け続けることになります。
恐れを超えて、自分のすべてが飲み込まれるままになります。
あなたが運悪く(あるいは運よく)、そんな人の一人だった場合、好むと好まざるとに関わらず、どこかでそちらに目が向くことになります。
求めているものが虚空のようにしか見えないことを、最初から認識して取り組んでいる人は稀でしょう。
エゴをおおむね卒業し、不安定なマインドに成熟が訪れるまで、様々なダンジョンを通って変化=経験をいくつも味わい、追い続け、楽しむことになります。
途中にはなんども真の目覚めがありますが、そこに目を据え続けることができる人は、これもまた稀です。
真の目覚めの反映である経験、どんな結果が得られたか、人になにを話せるか、に大抵は一瞬で心を奪われ、同じゲームの次のステージを目指します。
やがてどこかで運よく成熟が訪れた場合、すべてのゲームを完全放棄する決意が、どうしようもなくやってきます。
きっぱりと。
しかしこのきっぱりとした決意・覚悟の後ですら、マインドは揺らぎを止めることはありません。
でも正しい場所に視線を据え置き続けるなら、マインドの揺らぎをただ観照するようになります。
その動きと、不安定な性質をすっと認識するだけ。
そういう、本当にニュートラルな土壌にただあること、ニュートラルな土壌であることにだんだんと馴染みが育って行き、なお目を向け続けるようになる頃には、視線の発信源がないことがはっきりしています。
目を向けている元は限りない場そのものであり、特定できない。
目とは呼べない目が認識している対象、あたり中に常に広がるものもまた、特定できない。
五感でも、六感を通してでもなく知っているものを眺め、確かめ、研究し、そのつかめなさに身を任せていると、ふいに、
あ、
という瞬間があります。
あ、そっちが自分だ。
完全に疑いようのない、本体と知識の合体・一致があります。
天国の鐘がなることもありませんし、天使が舞い降りたり、いなづまが走ったりすることはありません。
恍惚もありません。
むしろあっけない、非常にそっけない、
なんだ、そっか。
というくらいのものです。
翌朝・翌日にはむしろ、それを特別化しようとするマインドの猛攻撃にあって、あのあっさりとした、しかし疑いようもなかった認識がどこかに消えてしまったような、なくなってしまったような気すらするでしょう。
ここであっという間にやめたはずのゲームのダンジョンに戻るか、淡々と目を向け続けるか、どちらが起きるかはその地点でのマインドの成熟度によります。
あなたの中の馴染みが強く育っていた場合、どんなに頭の中や心の中が沸き立っても、全く新しくまた目を向け続けるーわかる、わからない、といった思考に惑わされず、ただ目を据え続けることになります。
静けさに、どうしようもなく惹かれ続けることになります。
それだけをまっすぐ示してくれるものを察知して、それを指標にしつつ、ただ目を向け続けることになります。
恐れを超えて、自分のすべてが飲み込まれるままになります。