2014年9月8日月曜日

自然の法則

拡大と収縮は、自然の営みに欠かせない動きです。私たちの命は、心臓、呼吸をはじめとする様々な機能の、機械的な、たゆみない拡大と縮小運動によって生かされています。息を吸ってばかりでいたら、死んでしまいます。心臓が拡大だけを繰り返したら、破裂してしまいます。拡大と縮小はどちらも等しく重要な動きです。美しく広大な宇宙も、拡大と収縮を繰り返して成長しています。

馬鹿げた話ですが、私はスピリチュアリティにおいては、自然の法則はすべて超越され、例外が設けられるものと勝手に幻想を抱いていました。瞑想なりなんなりを通して、上り調子一方のみで成長していくと思っていました。だから拡大意識を経験した後に、古い癖や悪いと決めてる感情が湧いたときには、それはそれはがっかりし、疑いや自責の念といったもので一杯になりました。

”疑いや自責の念”というとまだ格好いい気がしますが、現実にはただの癇癪です。思い通りにいかなくて、欲しいものが手に入らなくて癇癪を起こしているに過ぎません。過去には一度、集中的なアセンションをしたのに古い癖がなくならないと癇癪を起こして、私の師カーリーに怒鳴られたことがあります。

意識が拡大しているときと収縮しているときでは、存在の仕方がまるで違うように”感じられ”ます。自分と周りのすべて、人、動物、椅子、すべての経験との境が存在しないことが明白な状態、すべての物を存在させている、静かなエネルギーが空間に満ち満ちているのを実感し、さらには自分がそのエネルギーそのものであることを自明のこととして”知っている”状態。その認識すらも消えてしまう瞬間―そこから、何をどうやっても、誰かに対する怒りや妄想が止まらない状態、体を駆け巡る不快な感覚や痛みを経験し、解決策を求めて頭が混沌とする状態、その状態を拒否し、静けさに返りたいと全身が叫ぶ状態を経験すると、自分が別の人間か、二重人格であるかのような気すらします。

意識が拡大・解放されている状態では、無抵抗、自分をゆだねることはごく自然に起きます。意識が収縮・縛られている状態では、すべてのものに抵抗感を感じ(抵抗感への抵抗まで感じ)、出口のない苦しみを経験します。

意識が収縮を経験しているからといって、拡大の瞬間がまったくないわけではありません。ただ収縮が”主要な経験”として注目されている時、隙間隙間に起きる素朴な現実の認識は見過ごされがちになります。

マインドはいつも、拡大だけを経験したい、と言います。収縮は間違っている、と言います。命は、自然の法則は、マインドの意見なぞ気にもかけません。

数億の銀河のつらなりが、収縮と拡大を行っている美しい画像を見る時、自分の体の中で、まったく同じ動きが起きているのだということが思い出され、気が遠くなるような感慨に満たされます。

自然の法則に例外はありません。見回す限り、命は拡大と縮小、生と死を繰り返しています。