2016年12月21日水曜日

オープン・シークレット 2

念願の本を、願っていたのよりずっと早く手にすることができました!
ヒロさん、本当に本当にありがとうございます。m(_ _)m


今早速、訳者あとがきを読み終わったところです。
(はい、後ろから読むタチです。)

感激。

トニーと彼のメッセージの色々な側面が、まったく偏りのない形で紹介されていて、すごくバランスが良いです。ヒロさんこれ、トニーは読んだんですか?笑

訳者あとがきを読んで、色々な思い出が浮かびました。ヒロさんの観点がよかったから、”あ!あの時トニーがこう言ったのは、こういうことだったのかもな”、なんて昔のやりとりについて、今気づかされたこともありました。


私がトニーと直接出会ったのは9年前、トニーが誰かもよく知らずに、ただただ苦しかったから、無料で電話で話してくれる、というのに飛びついてイギリスまで電話したのが最初です。

本も読んでなかったし、ウェブのメッセージも目を通さなかった・・・恐ろしく失礼、かつ図々しい話です。(^^;) エゴというのは自分が楽になるためならなんでもします。笑

時差の関係で会社から休憩時間にかけたんですが、留守電。勇気を振り絞ったのにちょっと無念、と思いながら、メッセージを残したところ・・・

10数分後、トニーから電話が。
びっくりしたのなんの。

世によく知れた先生が、見ず知らずの質問者に国際電話で電話かけ返してくれるなんて・・・

緊張しつつ、支離滅裂になりつつ、”私の苦しみ”を訴え。
”それはただ起きているんだよ”
という言葉に、すべてが軽くなったのを感じましたが、同時に、

”できることなど何もないよ”

という容赦の無さに追い詰められて、逆に必死に瞑想にすがりつき、気が狂いそうになって数日後にもう一度電話。

”こうしてあなたと話してる時は楽に感じるのに。”
”それもただ起きていることなんだよ”

**

その後トニーのリトリートに出かけたわけですが、4日間だったかな?どんな質問にも3つくらいの答えで対応する、その”横道に逸れない”メッセージ、妥協の無さにびっくりしました。(駄話とか、他の人のこき下ろしとか、下ネタとか、そういうの別にして・笑)

ヒロさんがあとがきで引用している、『Invitation to Awaken』は、”まだ何かをする誰か、とう観点で書かれていた”という理由で、リトリートでの本の販売から除外されています。

”何もできることはない、できる誰かなんていない”なんて言われても、どうしようもなくて苦しいばかりだった時、何かできること、”誰か”を感じられるこの本が、”トニーでもこう言ってたんだぁ”とすごくホッとする、心の支えだった時期があります。

同時に”あれ?ちょっと意外だなぁ”と思う部分もあって、トニーに聞いたら、得意の渋面で”あの本はねぇ、、、”と先のように答えてくれました。

本当に面白い人です。


さて、これからゆっくり、オープン・シークレットを楽しみます。

2016年12月12日月曜日

オープン・シークレット


トニー(パーソンズ)の最初の本が、ヒロさんの訳でまもなく発売になるということで、
私としては嬉しい限りです(^^)。

3年前、
”アメリカでずっと色々なものに触れてきたけど、日本ではどんな様子なんだろう?”

ーなんぞと思って、”スピリチュアル”関連のブログを、あれこれ探しては試し読みしていた時期がありました。

私の適当なサーチは初め、あまり良いヒットを生まなかったんですが、”そうだ、私が知ってる人たちは、日本では知られているのかな?”ということに興味が湧いて、そういった観点で再度グーグルし始めました。

当時、トニーのリトリートから帰ってきたところでもあったので、『トニー・パーソンズ』とグーグルして、見つけたブログの中の一つがヒロさんのブログです。


発見した時は、とっても嬉しかったなぁ。


”あ、トニーの言ってることをわかっている人が訳してる”
というのが私の最初の感想でした。


そしてトニーだけでなく、ヒロさんの探求の旅はそれはもう、幅広く・・・
一番最初から最新のものまで、全部に目を通した、2つ目のブログです。
もちろん、今も欠かさず読んでます。

(一つ目は雲黒斎さんのブログ ^^。発見した時はあれも嬉しかった。背後霊とか引き寄せとかには一切興味はないけど、それでもたくさん学びました。こちらは全部読むよりずっと手前で終わってしまいましたけど、すごく面白いブログで、日本人には珍しい、論理的な感性と表現のうまさ、真摯さ、親父ギャグのコンビネーションが好きでした^^。)


ヒロさんがブログで説明している通り、これはトニーが書いた唯一の本です。
すごく優しいトーンの本です。
シンプルに、淡々と、優しく、私たちの存在の核心、幻想の核心、苦しみの核心を描写しています。

オープン・シークレットというのは、本の題名というだけでなく、トニーが自分の活動の名称として使っている名前です。トニーは自分の口をついて出てくる表現を、”私の言葉”と言わずに、”オープン・シークレットの表現は”、なんて風に言います。

トニーはこだわりの人なので(^^)、経験とともに表現が変わっていくにつれ、それを反映すべく、何度か改定が加えられています。
結果、私が10年以上前に買ったのと、3年前に買ったものは、多少感じが違います。

2011年版は前のものに比べ、妥協のなさが一層強まって、ギリギリのところまで肉を削ぎ落とされたような感じを受けます。
それでも、本全体からほのかに漂うような優しさは変わりません。

大好きな本です。

まだ日本語版の本は読めていませんが、文句なしにオススメです。

ぜひ買いましょう!(^^)

             

2016年11月28日月曜日

悟りと進化

「あー、ええっと・・・”悟りは自然な進化のステップですか?”」

「おお、それはいい質問だ。答えは”いいえ”。仮に悟りが何かであるとするなら、悟りは進化からの逸脱だ・・・というか、私にはその質問が個人の生まれ変わりについて聞いているとも、種としての進化について聞いているとも取れるが、いずれにしても答えは同じだ。進化というのは変化についての話であり、悟りというのは真理、すなわち不変のものについての話だ。進化というのは日常の存在より、より大きな背景で起きることだが、それでもまだ、二元的な脈略の中に閉じ込められている。言い換えると、進化、成長、発達、変化、なんでもいいがそういったものは全て、二元的な存在のドラマチックな出来事の一部だ。悟りはそうではない。」

ジェッド・マッケナ『Spiritually Incorrect Enlightenment』

********

ある時、”自分”と思ってるレッテルのすべてを放り捨て、捨て続けて気がつくと、意識が自分の存在を胎児までさかのぼっていました。そのまま意識は遡り続け、胎児としての形が形成されるより前まで行って、、、するとそこに、胎児としての形が形成される前に、”何か”があるのがわかりました。

意識はそこからそのまま線を逆になぞるように今に戻ってそれを通過し、先へ先へ、体が衰え、機能を止めるところまで向かいました。するとそこでも同じ”何か”が残るのがわかりました。

”あ!”と思いました。

その発見、あるいは気づきに喜んだ後、確信しようとして失って、、、、

しばらくしたある時、たとえ今、原爆戦争が起きて、私たちが世界と呼ぶもののすべてが完全に破壊されても、まったく影響されないものがある、というのをはっきりみました。

”ああ”と思いました。

自分の中では否定しようのない、はっきりした認識だったけど、口にして人に伝えたら、なんともオオボケな感じがするなぁ、と思いました(でも話したけど^^)。

そうしてその認識が薄れた頃のある日の夕方、散歩の途中、野原にあった大きな木を見上げた瞬間に、頭の動きが完全に停止し、”私”の動きが一切止みました。周り中のすべてはただ存在してー風と木と体と草と、土と、ただ佇むこととーすべてがそのまま、一切の名称も解説をも与える隙なく、ただ在りました。

後付けで解説を加えるなら、自分と周りに一切の区別がなかった、とか言ってもいいんでしょうが、そう言った言葉や描写の入る隙のない在り方でした。

数秒後に、その懐かしさが認識されました。
それは新しい発見でも経験でも悟りでもない、子供の頃、ふつうだった世界の在り方でした。

そうして”たとえ原爆戦争が起きても、まったく影響されないもの”
”自分が生まれる前にもあって、(もちろん今もあって)死んだ後にも残るもの”
に目が止まっても、変化に心をさらわれることは続きました。

”いつでも変わらず在るもの”
よりも、それに気づいた過程や、その余韻の方に心を奪われ、それをとどめようとして失望や喪失感、自分の不出来感を味わいました。

でも”それ”を新たに思い出したことで、”私”に燃料を注ぐことはどんどんと減り、代わりに”私”のガス抜きが加速されました。

力みが衰えて、抜けていくうちに、一所懸命探してきたものは、思っていたのとまったく逆に、どんなに努力しても失えないものだとわかりました。
存在のすべてにおいて、最も努力なく、手に入っちゃってるもの。
どうやっても離れることも、失うこともできないもの。

そしてどうやっても、定義・特定できないもの。
”わかった!”ー”私”が言いたくてたまらない、あの一言が適用できないもの。

まったく変わらないものに意識が返ることで、進化から逸脱するという見かけの変化が起きるのは、パラドックスとしか言いようのない、喜劇だなぁと思います。


・・・ううう。風邪で頭ボケボケ。


2016年11月12日土曜日

目覚め

”....禅や他系統の人々はこの点に関して話しはするが、大抵の場合、
重度の精神衰弱はスピリチュアルな教えの大きなセールスポイントではない。
皆完全な知識、苦しみからの完全な解放その他といった
美味しいものはすべて欲しがるが、誰も代金は払いたがらない。

ジュリーが今いる地点こそがその代価、もしくは、いずれにせよその始まりである。
(目覚めとは)血まみれの混乱、というのが単純な事実であり、
愛・至福系の人々は参加登録しないのだ。
彼らは、立ち泳ぎ仲間の間で
居場所を失わないで済む悟りが欲しいのだ。
手足をばたつかせるのをやめたくないのだ。
一人で暗闇に滑り込みたくないのだ。
彼らが欲しいのは別の悟り、
グループにとどまり、注意深く作り上げた人格を維持して
ただ幸せになりたいのだ。
できることなら本当に本当に本当に幸せに。

自分も隣の男性と同じように幸せが好きだが、
幸せは私たちを真理の探求に送り込んだりしない。
それはやってくるのが天国であろうと地獄であろうと、
代価に糸目をつけず嘘であることを止めようとする、
猛烈で熱狂的、激しい狂気なのだ。

(目覚めは)高次の意識とか、自己発見とか地上における天国とかいった話ではない。
これは血がこびりついた刀、朽ちかけたブッダの頭、そして自己犠牲といった話であり、
そうではないという人は皆、
自分が持ってもいない何かを売っているのだ。” 

                 ジェッド・マッケナ『Spiritual Enlightenment The Damnedest Thing』

*******

6ヶ月に及ぶ教師養成コースが終了しました。この半年間はコースを中心にした
生活でしたが、これで一息です。

”瞑想”という穏やかなイメージとは裏腹に、
自分の中からも外からも、何が本当か本当でないのか、引っ掻き回し、
すべてを取り出し、投げ出して見直していくという、容赦ない作業を続けた
参加者のすべてに、深い敬意を感じています。

”こんなに大変だなんて、誰も先に教えてくれなかったじゃない!”
と叫んだ子もいましたし、

”長い間みんなを心の中で批判し続けてきて、今やっと、自分が何を
してきたか、いかにわかってなかったか気づいたの。
ごめんなさい。自分が何してるか、まったくわかってなかったの。
こんなに長くかかってごめんなさい。”
と涙を流した人もいました。

否応無くそうせざるを得なかった、というのが現状ですが、
自分のすべてをさらけ続けたみんなに、深い感謝を感じています。

事実を言えば、参加者の誰もが、愛と至福、より良い自分を求めて
コースに参加したと思います。
自分のちょっと不都合でうまく機能してない部分を補正して、
ずっと楽な人生を歩んでいけると思ってたと思います。
”それ”を知る、思い出す、ということが、機能不全でありながらも
長く慣れ親しんだ自分の全てを捨てることであるとは、誰も、
聞いていても理解できないことであり、誰もが、期待していたこととは
まったく違ったと言います。

そうして、それぞれが新しい一歩を踏み出します。

2016年11月11日金曜日

ニュージャージー州 イントロコース

イシャヤのアセンション、イントロコースの日時が決まりました。
11月19日(土)7pm -8:20pm
会場:Stirling, NJ (NJ transit, Morris Essex line Stirling stationより徒歩5分)
参加費:無料

興味のある方はこのブログの連絡フォーム、もしくはこちらのページにある
連絡先、もしくはこのページからご連絡ください。

2016年10月24日月曜日

ニューヨーク/ニュージャージー



11月にニューヨークに行くことになりました。
久しぶりのニューヨーク、とても楽しみです。

せっかくの機会なので、希望があれば、イシャヤのアセンションのイントロを開催したいと思います。
興味があったら是非お知らせください。

11月19日土曜、もしくは20日日曜、開催可能です。
イントロは参加無料です。
ニューヨークで場所を手配できる方がいらっしゃったら、是非お知らせください。
もしくはニュージャージーのStirlingで土曜もしくは日曜の夜、開催可能です。

場所、日にちの要望等、このブログの連絡フォームもしくは、下記ウェブの連絡フォームよりお知らせください。

http://www.jpishaya.net

2016年10月3日月曜日

6か月

教師養成コースも気がつけば最終月に入り・・・びっくり!

やっぱり6か月なんてあっという間だなぁ、と感じる今日この頃です。

今回行ったらみんなが長袖やらジャケットやらを羽織っていて、
それが妙に感慨深かったり(自分も長袖だったんだけど)。

行くたびに、あの濃密な空間はとてつもなく居心地がよく、深い愛に包まれます。
そしてサポートに来ている教師みんなに、それはそれは、強烈な愛を感じます。

まるでどっかのスターの熱狂的なファンみたいに(笑)。

あの人も素敵で、この人もあんまり好きで、はちきれそうでどうしようか、
と思うくらい。

ずっと頑張ってきている、素敵な養成コース生たちについては、というと、
同じようにみんなに恋に落ちる、というのはなくて、むしろ個人はまったく感じないのに、
ある人の髪の毛の美しさに飲み込まれそうになったり、
ある人のきているシャツがあんまり美しくて取り込まれそうになったり、

と、なんともへんてこな魅入られ方をしています(笑)

そうして痛いくらいの、張り裂けそうな愛情を感じては、
アセンション・アチチュードを思い浮かべてすべてが一瞬にして消えるままにします。

すべての動きが完全に停止する、その静の質は、激情とはまったく異なる愛であり、
比べるもののない安らぎであるのを感じます。

”自分の中のネガティブなエネルギーを明け渡すことはできても、
強烈な愛や恍惚、神との一体感を明け渡す、となると、それはまた別の話だ。
神を諦める、捨てるような感じがするからだ。
だけどそれをせずには、二元性を超えることはない。”

といったようなことを言ったのは、デービッド・ホーキンズでしたか。
彼は恍惚感が増すほどに強烈になる反動を何度も体験して、ようやく
神秘と愛を明け渡すに至った、と話していました。

でもそれは、努力でも鍛錬でもなく、
無限にして不変、
無であり、すべてであるもの、
一であり二であるもの、
不動であり動であるもの、
を思い出すほどに、気付くほどに、見つめるほどに、我にかえるほどに、
ごく自然にあらわになる道行きだ、という気がします。

2016年9月12日月曜日

感謝


私の住んでいるチャタヌガには、結構なサイズの水族館があります。
なんでも淡水魚の数は世界一なんだとか。今回日本から来てくたHちゃんに教わったんですけど。

これはそこのクラゲ。
きれい〜

******

日本から3人も、リトリートに参加しに来てくれました。はるばる日本から来てくださったということに、現地のみんなも大感動。

3人ともせっせとアセンションに励んでくれて、これまた感動。


日本からリトリート参加者を迎えたのはこれで2回目ですが、みんなを迎えるときのワクワク感と言ったらありません。

日付変更線を遡ってみんなが来るのを見守るのは、なんとも不思議な感じです。

みんな無事帰国して、感謝の気持ちで満タン。


本当にありがとう。

2016年8月25日木曜日

まっすぐで、透明な(4)

今回の養成コースに繰り返し参加していて、気がついたことが一つあります。

"fascination with the process"

とカーリーはよく表現するのですが、要するに、”何かになっていく過程に対するワクワク”ですね。
今、この瞬間に”それ”に返るーそしてすべてがはらりと落ちてしまうーことよりも、そう”なる”という前提のもとに、変化やら、目的やらを楽しむ方に心を惹かれる。

これは今目の前にあるものを無理やり遠くへ押しやって、どうやって手元に引き寄せるか楽しむようなものです。なかなか笑えるゲームですね。

で、私はこれをやっていました。

自分自身がコースを経験してみた上で、今度はそれをある種外側から見るー前に書いたように、”見る”なんて上品なことはありえないと、すぐに気づくわけですがーということに、興味を惹かれていました。

”自分が参加しているのと、手伝いに来るのとでは、全く違う経験だなぁ!”

なんて思考とそこから派生するワクワクを楽しんでいました。


そして彼女が来た時、”ね、自分のコースの時と、私たちのコースに来た時は違った?”と”ワクワクしながら”聞いてみました。

彼女は、”う〜ん、同じ。”
と、いつもののんびりした、しかしスッキリ明晰な様子で答えました。


それを聞いた瞬間、私は顔に水をかけられたような気持ちになりました。


すでに自分の間違いに気づきながら、彼女にもっと説明してくれるように頼みました。

”walking into the unity"
と彼女はシェアしてくれました。

日常生活では、毎日朝から晩まで体のことばかり話すお年寄りに囲まれ、統合意識しかない、という事実がやや影って感じられるような気がする時があるけれど、こういう環境に足を踏み入れると、それしかそこにない。。。

その説明は、ミーティングの時、深く深く祈っているようにしか見えない彼女の様子を説明していました。

カーリーの指摘や、有名な賢人の名言以上に響きました。


愛の出し惜しみの時もそうでしたが、言葉そのものより、言葉の底やら後ろやら・・・周りにあるものが力強すぎて、美しすぎて圧倒されてしまうんですね。


そしてあの、あけすけで、まっすぐな眼。
疑う余地のない、透明さ。


彼女は、”日常の中では、自分の時間が欲しい、なんてエゴがまだガーッと頭をもたげたりするけどね。”と言いました。
”?自分の時間が欲しいなんて、当たり前じゃないの?だって起きてる時間ずっとお世話でしょう?休暇もないわけでしょう?”
と慰めるような気持ちもあっていうと、
”ん〜〜、あのエネルギーは完全なエゴだよ!”
と、彼女は笑いながら、かつ曖昧さのない様子で言いました。

”自分”の都合ではなく、物事のありのまま、エネルギーの質をしっかり見てるんだなぁ、とその容赦のなさにたじろぎました。

”音楽やってたせいなのかもしれないけど、神秘体験が多い方で・・・”と、彼女は幾つかの体験をシェアしてくれました。
中にはブッダがお経を唱えているところに出くわして、あまりのエネルギーに自分が散り散りになってしまいそうになり、”やめて!”と叫んだ、なんていうのもありました。

たいていの人の口からこんな話を聞いたら、私は引くか、流すかするんですが、私はただ、彼女の経験を感嘆の思いとともに聞きいていました。
実際、同じ話を前に彼女から聞いた時は、まだ彼女が”重く”見えていた時で、”へぇー、そうなの”と完全にスルーした記憶があります。

それが今回は、全く違う話を聞いているかのようでした。

せっかく久しぶりに会えたのだから、と、彼女は一緒におしゃべりする時間を設けようとしてくれていたのですが、私はもう、20分も話した時点でいてもたってもいられず、アセンション(瞑想)に戻るしかない、という状態になりました。

お腹いっぱいならぬ、魂いっぱい。静けさに沈むしかない。


++++++

彼女の変化は、私の変化です。当然ですが。

彼女の目が開かれた後、私の目が開かれることがたまたま起きて、美しいものを、美しいと認められる能力を取り戻しました。

そうして今は、会うたびにより透明になっていく彼女に、そんな人がこの人生にいてくれることに、ただただ感謝しています。

トニー(パーソンズ)だったかな?”僕が知ってる一番悟った人は、ハワイでコンビニの店員やってるよ”と言ったのは。

猛烈な探求者だった私は、”どうやったらその人を見つけて会いにいけるだろう?”なんて妄想を当然かき立てたのですが(笑)。

彼女の人生は目立とうとすること、特別であろうとすること一切なく、平凡そのもので、すべてが一なるものに捧げ尽くされています。

その本物さに打たれっぱなしです。


彼女を通して表現されている透明さに気づくことができて、本当にありがたく思います。

2016年8月24日水曜日

まっすぐで、透明な(3)

その次に彼女にあったのは、2年後、去年のことです。仲間内の結婚式で会いました。

この時の彼女との時間は・・・楽しかったぁ!

クルーズ行って、式参加して、、、ご飯食べて、お酒飲んで、喋って、踊って・・・ただひたすら楽しい時間を一緒に過ごしました。

アセンションの話も、スピリチュアルな話も全然しなかったと思うけど、彼女はまた一段と、”私”がなくなっていました。


彼女はイェール大学の音楽科を卒業した人で、もともとすごく頭のいい人です(正直、イェールに音楽科があるのは知らなかったんですけど ^^; )。
卒業後、プロの音楽家として10年くらいは活動したそうですが、彼女が養成コースに行った時点では、音楽はやっておらず、独学でウェブデザインを学び、個人で仕事を請け負っていたようです。

それが養成コースの後、すべてにすっかりモチベーションを失ってしまい、依頼が来ても”私ができることなんて、自分でできることなのよ”と、無料で技術や知恵を提供して終わりにしてしまうようになったそうです。

そうやって、何に対する願望もすっかり消えてしまった中で、お母さんの体調が悪くなり、介護をするようになりました。そこから近所のご老人にも頼まれ、お世話をするようになって、結果的にそれが仕事のようなものになった、といった具合でした。

真実が深く根を下ろしていたところに、無私無欲の生活を送るようになったためでしょうか(真実は無私無欲だから同じではありますが)、彼女は思いやりに満ち、機転が利いて、そばにいると楽しいばかりでした。


そして1年後、数週間前、やっと彼女にまた会えて・・・

出発直前にお母様が怪我をしたので、たった一晩しか彼女と一緒にいることができませんでしたが、あの充足感を、言葉では表現できません。


さて、書けるかな?

つづく。

2016年8月23日火曜日

まっすぐで、透明な(2)

その後特に彼女と会う機会はありませんでしたが、彼女は私の中で、どちらかと言うならそんなに会いたい人ではなく、カーリーが私のある経験を彼女のものと関連させた時も、”彼女と一緒にされたくなーい!”、というのが私の反応でした。養成コースで目撃した彼女の変化はすごいと思いましたが、彼女に苦手意識がありました。


それがまったく変わってしまったのは、私自身の教師養成コースの時です。


教師養成コースには、ほとんど毎日、いろんな人の出入りがあります。
リトリートに参加する人、お手伝いに来てくれる人などです。

最初の頃は人の出入りを楽しんでいたのですが、毎日昼夜を問わない瞑想を続けるうちに、だんだんと神経が研ぎ澄まされていき、人の騒音にやたら敏感になってきました。

目につく人が瞑想しているかしていないかー”それ”に心が向いている人と、頭の声に同一化している人の違いが、はっきりわかる。
”それ”に心が向いている人を見るとその美しさに吸い込まれ、頭の声に同一化している人のそばにいると、それが騒音のようにあたり中に響いているように感じられ、肉体的に”痛い”と言っていい感覚を感じる、と言った塩梅でした。


まぁ実際、私たち誰もが程度の差こそあれ、お互いの状態を常に自然に察知しているわけで、これは何も特別なことじゃないですよね。



さて、彼女が登場した瞬間、私はその静かで大きなフィールドにハッとしました。

まだちょっと残っていた苦手意識を押しどけて話しかけてみて、彼女のあけすけさ、あどけないと言ってもいいような可愛さにびっくりしました。かつて感じていた重さなど、見つけることができませんでした。


彼女は1ヶ月滞在して、料理を担当してくれたと記憶しています。私はキッチンの横のリビングで瞑想することが常だったので、キッチンからの物音、話し声は常に聞こえていました。彼女のほんわかした声が大好きでした(今でも思い出して、頭の中で聞くことができます ^^ )。

一度に35人分の料理を作るのは結構な重労働ですし、あると思っていた食材がなかったり、予定より料理に時間がかかったり、ということはままあります。
人によってはストレスでカリカリしたり、パニックを起こしたりします。そういった状況で急かされたり、強いトーンで質問されても、ただの一度も彼女の声にストレスの響きが混じることはなく、のんびりとした穏やかな対応は、一切変わることがありませんでした。


自分自身の養成コースを終えて、私たちのコースを訪れた人たちを見回すと、人によって静けさや騒音の程度・状態に変化があるのが見受けられましたが、彼女の安定度は見事で、料理の時のみならず、滞在中どんな物事にも影響される様子がありませんでした(彼を叱るときも・笑)。

コースを教える時は、何一つ派手なところがなく、ただ淡々と、正確に進めていっていました。


彼女に尊敬の念を抱かずにはおれなくなりました。


今思い返してちょっと笑えるんですけど、彼女は当時、”最近ただ生きるのが忙しくてアセンションしていないの。”と話してくれました。”一度に一つのことしかできないの。ここ3年はアセンションのことしか考えてなかった。でも今はお母さんの世話が忙しくて、それをただしながら生きてる。でも人生はすごく完全よ。”

彼女の言ったことがおかしかったわけじゃなくて、それを聞いてちょっと内心オロオロした、自分を思い出して笑ってしまいます(笑)。そもそもアセンションしてなくちゃいけない、何て思う方じゃないのに、まぁ、教師養成コースという、特殊な環境にあったからですね。



彼女が手伝いを終えて帰る前の晩のミーティングで、彼女に感謝を伝えるとともに、改めて彼女自身の経験を聞いてみました。彼女はいつもどおりあけすけに、オブラートに包むようなことも一切なく、自分の経験を話してくれました。それが”愛の出し惜しみ”に書いた話です。(彼は彼女の隣に座ってました ^^ )

彼女の言ったことを本当に理解できたのは数年後ですが、彼女が話していた時の空気、そのリアルさ、本物さに、身動きできない思いで聞いていました。


つづく

2016年8月19日金曜日

まっすぐで、透明な(1)

我が師カーリーが主宰する各種コースに参加すると、この瞑想を通して知り合った友人たちにあちこちで、様々なタイミングで再会します。先週末は”愛の出し惜しみ”で書いた友人に、久しぶりに会えました。

この瞑想を通して、これまで素晴らしい人達に出会ってきましたが、彼女は私の中でちょっと特別な位置を占めています。

私の知る友人たちの中で、彼女は私にとって最も透明な人であり、最も真実を生きている人です。

初めて出会った8年前は、彼女のことをこんな風に思う日が来るなどとは、それこそ思いもよりませんでしたが(笑)。

初対面の日に”あなたは神を見失ってしまっている”とか言いながら追いかけられた経験があり、”うるさい!”と怒鳴ったような・・・相当うざったいと思った記憶があります(笑)。

その1年後、彼女自身が養成コースに参加しました。

私はリトリートに参加して、たまたま彼女の大きな節目となった体験の一つに居合わせました。

彼女はコース参加者の誰よりも長時間、毎日瞑想していたようですが、その自負心は相当なもので、他の人をだいぶん見下してもいたようです。
そんな態度をミーティングで皆に批判された彼女は、すかさず一人ひとり指差してお返し発言をした挙句、最後に”私がこの中では一番アセンションしてるんだから、ふん!”と締めくくりました。

あまりのエゴに、居合わせた人全員の口があんぐり開きました。

養成コースの指導をしていたカーリーとバガバティは、ショックもあらわに”そんなエゴを抱えて教師になることは、間違ってもありえないわよ”と彼女に言いました。
他の仲間もまた彼女を批判し始め、騒然となりました。

私はこの時点では、彼女に何もネガティブな感情を持っていませんでしたが、ああ、この勘違いはちょっと痛々しいな、と思いました。そこでちょっと遠慮しながら、”私たちは、優越感を得るためにアセンションするわけじゃないよね”と言いました。

教師でも何者でもなかった私の発言を、彼女はなぜか、静かに、素直に受け止めました。

私の言ったことが彼女を変えた、とかではありません。ただ彼女が、この騒ぎの最中のどこかで、エゴと向き合う決意をしたのだと思います。
そしてその後、引き続いて他の人が彼女への不満や、傷ついた気持ちを表現するたび、彼女は黙って、それを受け止めようとしていました。

彼女の中の深い抵抗と、それを無理やりねじ伏せようとしているのが、はっきりと見て取れました。あたかも鉄の分厚い、重たいドアをジリジリと強引に押し開けていっているかのような・・・それが目に見えるかのようでした。


そして彼女の中の、”私が一番正しい、他の人はみんな間違ってる”的なものが落ちました。


見事でした。



私にとって相当印象深い出来事でしたが、これは前回書いた彼の事件が起きる前のことです。

2016年8月3日水曜日

インスピレーションの有効性




私のやっているイシャヤの瞑想のコースでは、

”私たちが言うことを信じる必要はないですよ”

ということをよく言います。ふ〜ん、そうなんか、と思ってくださっていいですが、私たちが言うことを鵜呑みにする必要はまったくないし、むしろしてはいけませんよ、と。

私たちは自分の経験を話しているだけ、皆さんはそれぞれの経験を持って、
自分にとってどうなのかを発見していくことなのだから、と。

同じことを私の師カーリーは、”情報は実際に瞑想をするための助けでしかない”、
という風に繰り返し言います。

教師養成コースの中では、さらに進んで、”インスピレーションはより(この場合は)アセンションするためのものでしかなく、各自がよりアセンションする結果になる限り有効であるけど、実際にアセンションすることに取って代わるものではないのよ”と強調します。

教師養成コースでは、ニサルガダッタ、ラマナ、ダグラス、アンソニー・デ・メロ、アディヤシャンティをはじめとし、様々な著書が用意されています。こういった素晴らしい人たちの本は、大きなインスピレーションをもたらします。

そして新しい発見、新たな気づき、さらなる打開があった時、私たちの心は高揚します。

新鮮さ、美しさ、豊かな創造性に触れた時、私たちの心は全開に開かれ、高揚します。至福を体験することも多々あります。

ただ、この高揚感は、”それ”そのものではないんですね。

”それ”に触れた時(思い出した時)の副作用(経験)と、”それ”そのものは、同じではない。

心が開かれたその一瞬には、真摯な目覚めがあります。しかしその一瞬あと、一瞬より素早く、マインドが”その経験”を捉え、解釈し、言葉に、形に、概念にします。その絶妙な機能は賞賛に値します。

一旦形になったもの、言葉あるいは概念、感覚でもいいんですが、捕えられた感触を、私たちは繰り返し味わい、眺め、それが”それ”だと思って温めます。

実際はどうかというと、”それ”は私たちが最悪の状況を経験している時も、最上の経験をしている時にも変わらない、まったく同じものなんですね。

でも経験や関連する感覚を”それ”だと思うと、その高揚感を追い続けることになる。

インスピレーションを堪能するのではなく、それを受けてすぐに視線を”それ”に移す。
インスピレーションをすぐに捨て去って、自分で見てみる、ということです・・・ので、抵抗あったりするんですね(^^)。ああ、こんな美味しいものを捨てるなんて〜〜

でも他人の言葉の中に、他人の経験の中に”それ”が見つかることは決してありません。
匂いはするけど(笑)。
その匂いを嗅ぎつけたら即、元を辿るのがかなめの部分なんですね。

インスピレーションはたとえどんなに美しくても、”動き”です。
高揚感、至福も”動き”です。来ては去っていきます。

それを超えて、それを豊かに存在させているものに目を向け続ける。
中身に関係なく、一切影響を受けることなく、普遍であり続けるものに目を向け続ける。

インスピレーションはその手前まで、私たちを運んでくれます。
最後の一歩は、私たちが自分でとります。

2016年6月28日火曜日

愛の出し惜しみ

アセンションの教師養成コースに、サポートとして何度か参加しているのですが・・・。

”サポート”なんて上品なこと考えて、いわば鍋のふちに腰かけていられた(いるつもりでいられた)のは一番最初の数日だけ。あっという間に鍋の中に落ち、一緒に煮られている、というのにすぐに気が付きました(^^)。

ここ数年触れることもなかった感覚や思考が再浮上して、”あらま!”と、久しぶりの再会にびっくりしたり。

家にいようが仕事場にいようが、養成コースの会場にいようが、そんなことは一切関係ありません。
すでにコースを経験していようが、リトリートに参加しただけであろうが、生徒であろうが教師であろうが、そんなことも一切関係ありません。

あの人の悲しみも、この人の怒りも、そこいらじゅうにまんべんなく流れます。誰かが経験してることで、私には関係ない、なんてことはありえません。

35人前後が一日中、集中的に祈り続ける、”自分”を燃やし続けるこの強烈な場にあって、傍観者の立ち位置を守るには、相当なエネルギー、もしくは無神経さ、あるいはまったくの無関心が必要となるでしょう。

ただすべてを、握っている手をそっと開いて解放し続ける。。。。
流れてくるものに、湧き上がってくるものに打たれるままになりながら、抵抗が暴れるままに、自分の中が割かれるような思いがするままに、痛いほどの感謝が湧くままに、すべてをただ、流していく。。。

自分のすべて、体、心、思考、感覚、直感、人生の物語、、、、すべてをあきらめる、あるいは、湧いては消えるままにする。

そんな過程です。

そしてそんな過程を7年前に経験した友達の物語を、今日はシェアしたいと思います。
なんでこの話なんだ?と、書いてる本人とても不思議ですが。

****

彼女は7年前、長年のボーイフレンドとともに教師養成コースに参加しました。
彼女たちの恋愛関係は、私が知っているだけでも山あり谷あり、という感じでしたが、その時点では、お互いの価値を深く認め、たがいに支え合っているように見えました。
私がリトリートに参加した週末には、彼は彼女への溢れるような愛情を、グループにシェアしていました。

しかし、私がそんな二人の様子をかい間見た、その数週間後。

彼はリトリートに参加してきた女性に心を奪われ、その女性へと走って行ってしまいました(って、どこかへ行ったわけじゃないんだけど^^)。

当然、彼女の心はズタボロに引き裂かれました。

結果から言うと、リトリート参加者の彼女と彼の縁は短く終わり、二人の関係は修復されたわけですが、私がこのことを知ったのは、4年後のことです。

”教師養成コースで一番辛かったことは何?”
と私が聞いたところ、
”彼が別の女性に走って行ってしまったこと。”

と彼女は答えました。

”裏切られたショックは深く、痛みはとてつもなかった。彼への怒りや恨みは相当なものだったけど、アセンションし続ける中で、胸のうちに愛があるのを認めないわけにいかなくなったの。それが流れるのを止めているのは自分だけ。このまま怒りに任せて心にフタをし、愛を止めておくのか、止めている手を離して、流れるのに任せるのか。。。結果的に、自分を明け渡して、流れるものを、流れるままにするしかないってわかったの。愛情が湧くことを許すしかない。どうしてもそうせざるを得なかった。それは彼の愛情を取り戻すためでもなんでもない、ただ愛するしかないってわかったの。”

それが、コースの中で彼女にとって一番大きな転換点だったといいます。

彼女が言っていたのは、個人的な、恋愛関係の愛情の話ではありません。すべてのものの根底にある愛情は、いつも流れ続けていること、愛は私たちが無茶な方法で止めない限り、自然に溢れているのだ、ということ。

そして”自分”の都合を捨て、物事のありのままの現実を知りたい、と望むのであれば、個人の損得に関係なく、愛が流れるのをどうすることもできない、ということを身を持って経験した、ということです。


関連して思い出していたのは、バイロン・ケイティの言葉です。
彼女は2度離婚を経験し、今は3度目の結婚生活を幸せに送っていますが、前の二人の旦那さんを今も心から愛している、といいます。

彼らのことを考えない、なんてことはありえない。しょっちゅう心、あるいは頭に浮かぶ。そして彼らが今もそうやって(頭の中のイメージや思考で)自分と一緒に暮らしていることに心から感謝している、楽しんでいる、と言っていました。

当時、前の旦那さんのことを思い浮かべるのは、今の旦那さんへのある種の裏切りのように感じていた(というより、思考をコントロールできると思っていた)私は、彼女の話を聞いて目からウロコが落ちる思いでした。
なんて美しい思考だろう、と本当に心が軽くなりました。


恋愛関係や愛情関係に損得を持ち込むのは、とても疲れる話です。
どちらがもっと愛しているか、どれくらい尽くしたか、尽くされたか、愛情の証拠は認められたか、、、、等々。

愛の会計簿の収支計算を続けるのは、相当げんなりする話ですが、私たちは愛において勝利感を味わうために、喜んでこの作業を続けます。あるいは、愛情が得られない、なくすかも、という恐怖のもとに。


愛が感情ではないことーあの思考によって盛り上がる興奮やふわふわした思いではないことーに気がつくと、愛の出し惜しみは不可能であることに気がつきます。

愛は条件を選びません。

前の旦那であろうが、裏切り者の彼であろうが、愛に値しない私であろうが、そのすべてを、あるがままに存在させる、果てしなく無条件な命の源泉です。

そしてその愛を知るのに、思い出すのに必要なことは、ただそれを見つめるだけでいい、
ということ。

あやまった思い込みも、条件付けも、なに一つ修正される必要はありません。
ただ手放すだけでいい。

手放せない、という思いも、なにもしないで見つめるだけでいい。

そのシンプルさに、優しさに、感謝を覚えます。
そしてその感謝も、即座に、それが命の源泉へ還るままに手放します。

2016年5月25日水曜日

不安と、パターンと、祈りと


2016年、イシャヤのアセンション教師養成コースが始まりました。
、、、実はもう、3週間ほど経ってますが。


スタッフとして初日に皆を迎え、最初の週のサポートに参加しました。
これから6ヶ月、慣れた生活を離れるわけですから、皆、不安を抱えてやってきます。

不安が最高潮になると、それぞれ個人のパターンが前面に出ます。

無意識かつ自然に、それぞれのサバイバル手法が不安への対処法として
駆使されるわけです。


人の気をひくこと、注目を集めることに全力を注ぐ人。

自分の殻にこもる人、

ひたすら話し相手を見つけ、自分の物語を語り続ける人、

グループを仕切ろうとする人、

恐怖に縮み上がって髪の毛ばかりいじってる人、

馴染みの人のそばから離れない人、

などなど。。。



3週目までには、古いパターンに基づくドラマが早くも展開され始めます。

恋愛ごっこ、
批判ごっこ、
文句ごっこ、

もろもろ。。。。


そしてそれらの底辺に、見えないあたり中に、とてつもない静けさが満ちています。


常時30人以上の人が一箇所に集って”それ”に目を向け続ける・・・

自分を捨て続ける・・・

あるいは、祈り続けている、と言ってもいいですが、


そんなことが起きている場には、なんだかとてつもない力と、美しさがあります。

みんなはまだ気づいてないようだけれど。


そりゃそう。参加者のお仕事は、鍋で煮られることだから(^^)。

ぐつぐつ、
ぐつぐつ、、、



さて、誰が最初に自分を捨て切るのかな。


来週からまた、ご奉公に出かけます。


楽しみです。

2016年5月1日日曜日

マヤ 

ジェッド・マッケナという人の本の中で、彼がマヤと話をする、美しい場面があります。

マヤというのは、サンスクリッド語で、私たちの思うところの現実世界を表します。

私たちの思うところの・・・
つまり、真理と呼ばれるものの上にかぶった、薄いベールのような幻想世界のことです。

マヤの作り出す世界(この世界のすべて)はとてもは巧妙で、抜けたと思ってもすぐに絡め取られてしまう、

その美しいマヤとジェッドの、幻想に満ちた無言の会話。
なんとも魅惑的であったのを覚えています。


さて、そのマヤが剥がれるときーーー

これまで何の疑問もなく信じていた、
信じていると気づく隙すらなく反応していた現実に気づきがおとづれ、
はらり、とそれが剥がれると、、、

”人”の終わりがやってくるのが見えます。

そしてそこには、なんの例外もないことがわかります。
好みの思考は残して、苦しかったものだけ手放される、

なんてことはありません。

落ちるときはすべて、例外なく、容赦なくおちます。
しかもそれは芽が吹くように、花が咲くように、
まったく勝手に起きることで、何ものにも操作の余地はありません。

そんな可能性はまったくありません。

それが静かに訪れるのを、静かにハッとしながら見ています。
驚くほど静かで、劇的なものは一切ありません。


人の意識には、大きく大別して、眠っている状態、起きている状態、
夢見ている状態という3つの状態がありますが、

起きている時にも、かなりの時間を夢見て過ごしていることに気づきます。


マヤから離れると、生命の現実に隙間なく寄り添うことが起きます。
それはとどめることも、味わう余裕も、観察する隙間もない脈動する出来事です。

どこに向かっているのか、何が起きているのかなんて疑問は、
一切の価値を失います。

生命は、ただばくばくと、脈打ち、生きます。

2016年4月29日金曜日

日本再上陸ーそして帰国

2週間の日本滞在は、瞬く間に終わってしまいました。

イシャヤのアセンションコースに参加くださった皆さん、
本当にありがとうございました。

お会いできて、一緒に貴重な時間を過ごせて、感謝につきません。


日本はねぇ、、、、

本当に優しさが染みる国です。

帰るたびに思います。

2016年4月9日土曜日

特別さの消滅

スピリチュアリティの最大の人参は(そう、鼻の先にぶら下がるにんじんです^^)、紛れもなく、その

”特別さ”

にありました。

こことは違う、この代わり映えのしない日常ではない、光と愛に満ちた世界。
これまでの私とは違う、光の存在としての私(キャ〜〜〜)。
あるいはとてつもない存在との遭遇。
日常からかけ離れた経験。
他の誰よりも優れている自分。
すべてを超越して、ガイドとなる自分。

あるいは単純に、人に”特別だ”と認めてもらいたい。

等々・・・馴染みのあるもの、一つでもありますか?


この”特別さ”への渇望は、”それ”にどんどん心が、注意が向かううち、私の要望とは関係なく、自然と薄れていきました。

”特別な”存在であったり、経験であったりを味わうためには、
その反対の存在や経験を必要とします。

つかの間の特別感を味わうために、私たちは喜んで惨めさを受け入れます。
・・・その自覚すらなしに。

ですが、真に生命を生きる時、まっさきに消えるのが、
”特別さ”を楽しむ、感じる、求める、その”人”そのものです。

隙間なく生命を生きる時、特別さを口の中でいつまでもしゃぶり味わい続けようとする、
その”人”が存在する余地がありません。

あんなにも特別に思えたすべての経験が、するりと、一瞬にして手のひらから、指と指の間からこぼれて消えていきます。

とどめよたいと思う余地すらなく。

その特別さについて、語る暇もなく。

悟ること=終わりなき特別さに囲まれることだと思っていた私には、まったく予期せぬことでした。

そして砂のように指の先からこぼれていくものを、惜しいと思う隙もなく、
そのことに驚く暇もなく、次から次へと生命の動きは起きてくる。

生きることを修行(練習)することなどできない、と言ったのはガンガジでしたか。

その通りです。


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2016年4月3日日曜日

瞑想コース日程について

ウェブサイトで、誤ったコース日程をこの1週間ほど宣伝しておりましたので、取り急ぎ訂正させていただきます。

イシャヤのアセンション瞑想
<初めて習う方のためのコース>

東京:4月15日(金)〜17日(日)
長野:4月22日(金)〜24日(日)

<すでに習った方対象、リトリート>

長野:4月21日(木)〜24日(日)


ウェブサイト:jpishaya.net


本日は取り急ぎ、訂正のご連絡まで。

2016年3月17日木曜日

わかったというには早すぎる、わからないというには嘘すぎる

教師養成コースを卒業した、1ヶ月後のことです。

当時は我が師カーリーの家の近所に住んでいたこともあり、コースで教える内容について新しく思いついた案を見てもらうべく、家に来てもらいました。

そして、講義をやって見せたところ、
”Never settle" というフィードバックを受けました。

決して適当なところで腰を下ろしちゃダメよ、
何があっても安易に落ち着いちゃダメよ、

とでも言ったらいいでしょうか。


案は新しいものでしたが、その中に、”Aというのはこういうものである”、的な結論が持ち込まれていた点についての指摘でした。


”悟りというのはこういうものである”

とわかることが、言えるようになることが到達点なのだ、と思っていたのが反映されていたのだ、というのが、振り返るととてもよくわかります。


これは教師という役割を得たから、そういう到達点を想像していた、というものでもないんですね。それよりもっと深い習性です。


マインド、あるいは”私”という感覚は、どうしようもなく安心を求めています。

もうわかったのだ、と言えること、
信じられること、

極めたのだ、と言えること、
証明できること、
認めてもらえること、
宣伝できること、

それによって、もう探さなくてもいいのだ、と思えること。



もう探さなくていいのだ、と思えること。



を、必死に求めています。
そしてここだ、あー ここだ、と、

次から次へと止まり木を見つけては、そこに腰を下ろそうとします。



マインドには、止まるには理由がいらない、ということがわかりません。

止まるには、なにも必要としないのだ、ということがわかりません。


むしろ、”止まり木”がある限り、その嘘に伴う不安感がつきまとうのだ、
という事実には、必死に目をつぶり続けようとします。


あれから2年経って、そんなマインドの習性の深さをさらに痛感します。


探すのをやめることは、今この瞬間に一瞬にしておきます。

すべてから、一瞬にして、立ち去る、ということが起きます。



もっとも頼りにしてた、頭の声から。

もっとも真実だと、心の拠り所にしていた、その思いから。

馴染みのある、一切の思考、感覚から。



思っているよりも、ずっと深くしがみついている、そのすべてから立ち去ると、

真っ裸で歩いているような心もとなさがあります。


そして、すべてがただ、ありありと、存在しています。

不安の入る余地もなく。ある意味、幸せの入る余地もなく。


それは、例えようもない幸せです(^^)。



わかる、わかった、と思う限り、底なし沼が待っています。

”決してわからないのだ”という定義をかざすのも、同じ。



それでいながら、毎瞬間、まちがいなく、否定しようもなく、

”それ”であり続けている、私たちの、生命の不思議。


わからない、というのには、嘘すぎる真実がそこにはあります。



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2016年3月14日月曜日

誰もが、一番よく知っていること

先月、もう少しでアセンション、”お子様クラス”を教えることができるところだったのですが・・・

残念ながら、お母さんの熱い要望に反して年長の子が拒否し、ドミノ効果が起きたため、お教室は起きませんでした(^^)。

ざ〜んね〜ん〜


さて、お子様クラスの準備をしていた時、私の心をちょいと悩ませたのは、

”小さな子供にどうやって’それ’の話をするか”

ということでした。

このブログに書いているような語彙は、まず役立たずでしょう。

そもそも、小さなお子様たちは、’それ’なんて求めてるのか??

どんな風に共通の地盤を見つけたらいいんだろう?

・・・う〜む・・・



何人もの小さなお子様たちに教えた経験を持つ、我が師カーリーにそれを質問したところ、

”何言ってんの、この勘違い娘は”

という露骨に痛い視線とともに、

「誰も’それ’を教えてもらう必要がある人なんてないのよ。自分が何ものであるか、というのは、誰もが一番よく知ってることなんだから。」

という返答がすかさず、鋭く返ってきました。


我が師カーリーは、実用的なアドバイスは余すところなく与えてくれます。

ただし、根本的な勘違いの匂いがした場合には、絶対に見過ごしません(^^;)。

ありがたいことです。



皆が”知ってる”、かどうかは別として、、、、

知ってると”思ってる”かどうかは別として、


どうしたって、誰もが、例外なく、どうしようもなく、”それ”そのものである、というのはもう、揺がしようもない事実です。


皆、どう考えてるかに関係なく、’それ’してる(^^)。


それ以外でありえないから。


私たちがしているのは、せいぜい、一緒に思い出す時間を過ごすこと。



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2016年3月3日木曜日

無条件の愛

無条件の愛は、A さんが実行するものではありません。

B君が長年の修行と献身の結果、身につけたものでもありません。

Cちゃんがいい子だった時に、人から与えられたものでもありません。

有名な聖人だけが、マスターだけができることではありません。


ごく当たり前な、すべてのあり方です。


生命の単純な事実です。



ですが、誰かが”無条件の愛”なるものの特別さを語り、私たちが特別注意を払うようになると、


”愛”という言葉にまとわりついたすべての概念、過去の印象が、様々なイメージを作り出し、無条件の愛を素敵に条件化します。


”こういうのは無条件の愛じゃない”

とか。


”無条件の愛じゃないといけない”

とか。笑


そんなことが自由に起きるがままの無条件さは、軽〜く見過ごされます。


ダグラス・ハーディングは、そんな見過ごされがちな事実を、飾りなく、事実として表現します。

彼のキリスト教に関する表現は、これまで私が読んだものの中で、最も美しいものの一つです。

個人が、キリストが”する”のではない無条件の愛。
個人には”できない”無条件の愛。


事実として、今この瞬間に、あなたのために私が消えている事実。


そして、”過去の栄光”を掲げずに、毎瞬間確認する彼の真摯さ。


生命の源泉、”それ”、唯一なるもの、神、なんでもいいんですけど、それを”わかる”ことができない以上に、わかったのだ、という自信を持つことは不可能です。

でもそういった”体験”と”それ”そのものを混合して、過去の体験を語り続ける、
思い続ける、ということはしごく簡単に、頻繁に起きることです。



60年、なんて気が遠くなるような長い年月、ただ”それ”を見つめることに心を傾け、

そしてなお、人に何かを聞かれた時に、

”ちょっと待って、今確認してみるから


ああ・・・・その本物さには、本当に心を打たれます。


インタビューを読んで、その美しさに心が震えたのは1年前。

前にも書いたような気がしないでもないけど・・・

今日も改めて、感謝がわいています。


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2016年2月24日水曜日

高次の意識への興味すら


ここしばらく、”エンライトメント〜パタンジャリのヨガスートラ”という本を読んでいます。最初は翻訳している関係から必要に駆られてだったんですが、結構楽しく、ちらほら読み続けています。

この本は、私のやっている瞑想法を広めたMSIという人による、パタンジャリのヨガスートラの訳で、各章に彼の解釈が載せられています。

この本自体は、イシャヤのアセンション瞑想を習った16年前から持っているのですが、最初は頭ですごい!と思ったものの読み続かず。
英語が面倒くさくて読み続かず。
読書が面倒くさくて読み続かず。
知識を頭が拒否して読めず。
内容がイシャヤのアセンション瞑想の宣伝のようで読み続かず・・・

等々ということが長年続いていました(長すぎるって)。
このまま完読することなく終わるかな、と思っていたのですが、今回は今のところ続いております。

今回、これまでと違うのは、やはり自分自身の経験が変わってみると、同じ本がまったく違うものに見える、という点です。

確かに、イシャヤのアセンションを大宣伝!みたいなところもありますが、大前提としては、”どんな手法であれ、人の意識を条件付けによって限られたものから本来の、最大限に自由な状態に解き放つもの、それを目的とした教え”を総称してアセンションと呼んでいます。

(・・・そもそも、自分のやっていることの宣伝をそんなに嫌がらなくてもいいでしょうに。という話もあるんですが、手前味噌的なものに”あーはいはい”的な反応をしてしまう、という癖が長らくあったもんで。)

ヴェーダやヨガスートラは非常な深さを持つと同時に、非常な誤解を生みやすい、頭でっかちに陥りがちな要素が多々あるように思います。

もちろん、それはヴェーダに限ったことではありません。

2年くらい前、雲黒斎さんのブログにどっぷりはまってたことがあって、特に仏教関連の記事がeye openerという感じで面白く、ブログを通して仏教を学び直した、あるいは新たに出会った(ように思った)経験がありますが、ここでも同じことを感じました。

キリスト教の教えも同じ要素があるように思います。


さて、さんざん前置きが長引きましたが、
今回最初に開いて目に飛び込んできたのは、この章です。


”もっとも高次の意識への、最後のかすかな自己中心的興味すら失うことで、
完全に特徴的な意識が、アセンダント意識から雨雲のような自然の庇護をもたらす”
By loosing even the last vestiges of selfish interest in the highest consciousness, complete discriminative awareness produces from Ascendant Consciousness support of Nature like a raining cloud.


・・・こうやって訳してみると、私のまずい訳も手伝って、解読不能な暗号みたいですね(^^;)。


以下、MSIの解説の一部をご紹介します。


 ”とても面白いことに、”もっとも高次の意識”prasam khyaneは、”意識の最後の中毒”とも正当に訳すことができる。いかなる意識の動きも、完全に純粋な意識ではない。もっとも高次の、優雅な、楽しい、喜ばしい、心地よい、慈悲深い、輝かしい(prasamのまた他の正当な訳)意識の経験も、完全に純粋な意識と同じではない。高次の意識経験においてすら存在する、限られた個人性の最後の名残を失うことによって、特徴的な知識の力のすべてが理解される。これが起きるとき、自然の法は有害(不快)な影響を与えなくなるばかりでなく、その庇護を洪水のように注ぐ。”


解説もまだ、独特の表現が多すぎて暗号のようですね(^^;)。


パタンジャリのヨガスートラは、人の意識が分離から完全な統合に向かう発展の過程を幾つかの段階に分けて、それぞれの特性を描写しています。

ちなみに、抜粋した箇所は、本の最終章、統合意識を描写する章のさらに後半です。

分離を基盤として生きている状態から本質に目覚めていくに従って、人の願望は個人の利や快楽を追い求めることから、ごく自然にだんだんと、生命全体の流れに沿ったものに変わっていく、としています。

自分の本質に目覚め、それが”時折起きる経験”ではなく、生きる上での基盤の意識として確立していくと、この生命すべてを生かしている、本当の立役者は一体誰なのか、どうしても知らずにはいられなくなる、

真なるものを知ることだけが、唯一の願望になる、としています。

しかし、その、最も高尚な願望ですら、”意識の動き”に過ぎす、動いている意識は、どんなに高次で精妙な意識であろうとも、”個”を内包し続けるんですね。

”意識の最後の中毒”final addictions of consciousness
ふーむ、味わい深い(^^)。


意識の発展があるのか、それは段階的な直線的なものなのか、庇護とは、自然の法とは、とか、そういうことは一切置いておいて。


最後の中毒が、そのかすかな名残が失われる時ー


その言葉に引っ張られるに任せて、


その言葉が消え、


意識がうんぬん、という意識が消えるに任せて・・・


ただ、うつろっていく


うつろいすらも消えるのに任せて。


優れた叡智の価値は、頭にとどまること、それをわかること、知識を得ることではなく、それとともにすべての知識が消えること、であるように思います。



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2016年2月17日水曜日

イシャヤのアセンション 日本でのコース開催のお知らせ

昨年に引き続き、今年も4月に日本でコースを開かせて頂くことになりました。

コースは東京、および長野県軽井沢の2箇所を予定しています。日程、費用等の詳しい情報はこちらをご参照ください。


イシャヤのアセンション瞑想法については、このブログでも何度も紹介させて頂いていますが、なんといってもそのシンプルさ、簡単さはとても大きな魅力です。

また、どんな時にも行える、というのも大きな魅力の一つです。ただ短いフレーズを思い浮かべるだけなので、場所も服装も時間も環境も選びません。

アセンション仲間の一人は、こんなことを言っていました。

”かつて僕にとっては、釣りをしている時間が唯一至福の時だった。日常のすべてを忘れ、すべてのしがらみから自由になって、ただ風と、自然と、水と一緒にある。すべてから自由になって、我を忘れることができる唯一の時間だった。

アセンションに出会ってから、僕は釣りに出かけるまで待たなくていいようになった。心の自由時間は、持ち運び自由となり、旅する必要はなくなった。今も釣りの旅は大好きだけれども、そこに逃げ場を探す必要はなくなった。”


興味がありましたら、ぜひ、上記のウェブサイト、もしくはこのブログのカテゴリーより、”アセンション”をのぞいてみてください。


今年もいろんな方に出会えるのを、心から楽しみにしています。

2016年2月9日火曜日

イシャヤのアセンション

私のやっているイシャヤのアセンションという瞑想法では、アセンション・アチチュードと呼ばれる短いフレーズを使います。

目を開けているときでも、閉じているときでも、ふと意識が戻った拍子、ふと気がついた時に、ただそのフレーズを思い浮かべる。

そして、起きることを起きるままにする


ただ単純にすること、努力もいらない、思い入れもいらない、本当にただ単に思い浮かべること、というのが指南要綱です。

私はかれこれー途中ボイコットしていた時期を含めてー16年ほどやっていますが、続けるほどにシンプルになっていくのがとても不思議な体験です。

”ただ思い浮かべる”

というのは、つまるところ、”ただ生きる”、というのと同義です。

”ただ生きる”、というのは、”起きることを起きるままにする”、以外のなにものでもありません。

もちろん、

起きたことに気づくときには、ものごとはすべて起きている=終わっているわけですから、起きたことを起きたままにする以外、できることなどないのですが(^^)、私たちは、気づいた後に何かをすれば、その前に起きたことを変えられる、といった錯覚をしてたりします。


人間には、思考という贈り物があります。感情という贈り物があります。

それらは泡のように、浮かんでは消えるものですが、私たちにはそれらをつなぎ合わせて、ひとづつきの物語を想像する力が備わっています。


アセンション・アチチュードを思い浮かべるたびに、その鎖が切れ、物語が途切れます。


意識が物語に向かう事で、物語の継続がありますが、それが邪魔される事で、物語の崩壊が起きるわけです。


物語の崩壊が起きると、”ただ生きる”ことがこれまでどおり、ただシンプルに起きます。というか、自然に、ただ起きていることにかぶさっていた物語のベールが取れて、ただ起きていることだけが残ります。

ちょっとすると、また物語りのあぶくが浮かんできます。

気づいたら、またアチチュードを思い浮かべます。

ただ、起きることが起きているだけの、自然な状態があらわになります。


繰り返していると、ただ”生が起きている”状態へのなじみが、どんどん深まっていきます。

起きていることの評論家は、後から訓練して育て上げたもんだったよなぁ、

ということに気づいたりします。


そうすると、”あぶく”への愛着・執着は、ますます自然と消えていきます。

そして、この過程に一番不要なのが、”努力”であることにも気づきます。


日常生活の真っ只中で、ただ思い浮かべる。


目を閉じて休む時間を設けて、ゆったり横になったり座ったりして、意識がアチチュードと思考と気づきの間を行ったり来たりするのに任せる。


そんな生活を続けるうち、瞑想という修行ーあるいは私が悟るための手段から、それ自体がただ起きていること、生きていることの自然な一部へと変容しました。もちろん、時にはしっかり力んで、努力したりなんかもしながら。


気がつくと、なにか理由があるわけでもない喜び、なにかにもとづくわけではない感謝の気持ちが圧倒的に増えていました。

そして全ての行動を支配していた恐れが、自然と果てしなく減っていました。


この瞑想法に出会ったことに、感謝しています。

2016年1月26日火曜日

隙間のない生

あるレストランで、黒人の小さな男の子に意識がすいよせられた体験があります。
その子はごく普通の、何ら特別なところもない男の子だったのですが、

3−4歳くらいの感じだったかな?

すべての行動、ただフォークを取る、食べる、何かを見る、

その一つ一つが全身全霊で起きているというか、

”隙間が一つもない”、という感じで、

その隙間のない生には、ビリビリするような強烈な存在感が溢れていました。

なんてことない、食べる、見る、お母さんを引っ張るーそんなことだけなんですが、
その一挙一動が、強烈な生そのもので、目を離すことができませんでした。


まだ小さいから?
なんて思ってみたりもしたんですが、あたりを見渡しても、他の赤ちゃんや小さい子には、同じものが見られませんでした。

彼のお母さんも、まったく普通で、そんな強烈さはありませんでした。




無心に、ただ何かをする

やっていることに埋没している


ただ生が起きている状態というのは、もともと当たり前の生き方だったなぁ、

ということを思い出します。


起きていることへの評論家は、後から訓練して育て上げたもんだったよなぁ、

ということに気づいたりします。




昔は”ただ生きる”、なんて言葉は、聞いただけで退屈さで死んでしまいそう、
なんて気がしてました。

ちょっと前までも、やっぱりそう思っていました。

だからスピリチュアリティでよく語られる、神秘的な体験や、特別さを、とても大切に思っていました。



でも”それ”がしっかり意識にとまった時、その認識はすっかり変わってしまいました。



ただ生がおきること、の中には、余分な苦しみがありません。

それはマインドが思うような無機質で味気ないものではなく、むしろ無駄のない躍動感に溢れた、見事なものです。


ただ在ること、ただ起きている生には自意識がありません。


そこには、誰かが”自然に生きよう”とするような努力が入る隙はありません。

シンプルさには、命がけで取り組むことなどできません。

自然さに返るのに、情熱を持ち込む隙などありません。


ただ、息がおきる

ただ、音がおきる

ただ、歩くことが起きる


できることなどないままに、すべてはすでに起きている。

”もっと’それ’に意識を向ける”

という楽しい夢想の裏側で、魔法はとっくに起きている。


どこかで、私のものでもなんでもない、ただの意識が、その現実に追いつきます。

”それ”、が

”これ”よりもっと近く、

名付ける隙などない近くで

見てみることなどできないくらい、そのものであることに気づきます。

Like now.

2016年1月24日日曜日

思考と、感覚と

トルコ系アメリカ会社が日本のコンサルタント会社を雇い、通訳が必要とのことで、唐突に工場通訳のお仕事が降ってきました。

ああ、そういえばLinkedInの自分の経歴をフリーランスの通訳にしてたんだっけ・・・忘れてた(^^;)

日系の会社に勤めていたことがあるのですが、日系会社では経営の鍵になるポジションには、たいてい日本からの出向・駐在社員がつきます。他の国の会社も同じだということが今回わかりました。国や文化は違っても、人々の力関係にまつわるやり取りはとてもよく似ていて、見ていて大変に面白いです(^^)。

++++++

思考に自分がどれだけ頼っているか、ということに気づいている方は多いのではないかと思います。

私たちの誰もが頭の中にコンサルタント、マネージャー、現場監督、なんと呼んでもいいですが、指示者・指導者を持っていて、私たちは往々にしてその、”頭の中の声”に頼って物事を判断したり、決定したりします。

頭の声は時には自分を慰めてくれたりもします。
”大丈夫だよ”、”仕方ないじゃん”

昔あったことを思いださせてくれたりもします。
”あのときこうだったじゃん?”、”あいつ、前もこんなことしたじゃん”

褒め言葉、けなし言葉、なにかを定義する言葉、なにかに関する、すべてに関する意見ー

私たちはこの声に、とても重い信頼を置いています。


さて、スピリチュアリティに足を踏み入れると、この声、私たちの大切なご意見番は、極めて頻繁に・・・いきなり降格されます(^^)。


”思考はいけない、思考を止めなくてはならない”


ここでー
思考が降格されるとともに、唐突に昇格を受けるのが”感覚”です。

フィーリング、感じ、直感は、突然その価値が倍増され、思考に変わる新しい人生のリーダーとして持ち上げられます。

考えによって決めるのではなく、直感によって決めるべきだ。感覚に相談するべきだ。
感覚に敏感なのが優れていることとされます。


し・か・し、、、、


じっと観察してみると・・・感覚フィーバーから我に返ってみると、感覚も思考と同じくらいあてにならないことに気づきます。

が、この感覚のガイダンスへの依存は、思考への依存よりも深く、精妙なレベルに入り込んでいたりします。私たちは気づいているよりずっと、感覚に頼っています。


”これ、やるべきかな?”、”こっちに進むべきかな?”
という判断をする時に、自分の中の”感じ”を、無意識にチェックしてたりします。


一瞬頭の後ろや背中の後ろから沸き立つような、冷や汗をかくような感覚があれば、その緊急感に即座に反応して行動したりします。


あの状況、この状況、あの人、この人から逃げ出したいのは、彼らが何をするからではなく、何かが起きるのが嫌なのではなく、突き詰めると、”何かが起きたときに自分の体に起きる、特定の感覚を避けたいから”であったりします。


好きなことを、好きな人を追いかけるのは、好きなことをしている時、好きな人といる時に体に起きる、”特定の感覚が欲しいから”であったりします。




でも感覚も思考と同様に、”ただ起きているだけ”、であったりします。

”身体中に落ち着かない感じがする・・・ってことは、何かが起きる予感?”
なんて頭の中で意味合いがつけられても、

実際には何も起きないー起きたってことにしてもいいんだけど。



感覚と、それに伴う解釈を盲信しないで、起きるままにしてあげると、
意外な空間(自由)が生まれたりします。

ちょうど、思考を盲信するのをやめた時みたいに。



思考を”私化”するのをやめたときのように、感覚も自由にしてあげると、

すべては浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・


そんな自由さをいつもゆるしている、広々とした輪郭のない私ならぬ私が、不意にあらわになったりします。





2016年1月20日水曜日

あの時にも、”それ”は


私という名の実験場で、さまざまなことを手にとって見る、ということが起きます。

私という名の実験場はありがたいことに、材料(私、私の感情、私の思考、私の経験)込みで常時使用可、しかも無料です(^^)。
好きな時に、好きなものを手にとって、したい放題に実験して見ることができます。使用制限はありません。

プログラムもありません。”自主性”が完全に、徹底的に重んじられています。

もっと言うと、”自然に起きること”、がすべてを支配している場所です。

昨夜の実験場では、”瞑想をしていない時には、”それ”はなくなっているのか?”
という課題が降って湧きました。

瞑想でも、修行でも、ヨガでも、呼吸法でも、マスターと一緒にいるときでも、コースを受けているときでも、”それ”に意識を向けている瞬間でも、スピリチュアリティのカテゴリーに入るもの、なんでも入れて結構です。

スピリチュアルにカテゴリーされてない、”私にとって最高の時間”も混ぜて結構です。

すべてであるもの、は、”私”がそこに意識を向けていない時には、それに触れる努力をしていない時には、なくなっているのか?あの至福感、特定の感覚がない時には、なくなっているのか?

”そんなことあるわけないさ〜、道理的に言って。”
はいはい、道理的に言わないで。

”論理的に考えて、ありえないよ。”
いえいえ、論理は置いておいて。

どうでしょう?私が瞑想するから、修行するから、悟った人と同じ場にいるから、”それ”が出てくるのでしょうか?
瞑想をやめたら、マントラを止めたら、マスターやヒーラーの元を離れたら、”それ”は消えるのでしょうか?

”いや、普通に考えたらー”
いや、普通に考えないで。


”それ”は、あったり、なかったりするのでしょうか?


あ、そこの私、ここは”図書館”じゃないから、そのマスターの本、ちょっと置いといて。実験室だから、ちゃんと自分で手にとってみないとダメよ。


***


さらに、今朝の実験室では、その課題はもっと広がって、かつ具体的・個人的になっていました。
”私の人生でもっとも辛かったあの経験、あの瞬間ー無意識に思い出すのを避けている、あの時にも、”それ”はあったのだろうか?”

瞬く間に起きた、最初の反応は"NO!"です。

いんや!あの時は至福なんてほど遠かった。絶対に”それ”なんてなかった。ありえなかった。

・・・そうだろうか?

いや、絶対になかった。


否定の声を否定しないまま、心の中の過去の映像にズームインする角度が、ヒョイ、と変わりました。

”私”の視点から”考える”と、絶対にありえなかったものが、つい、となにかが”私”の脇をすり抜けた瞬間に、静かな絶対性をもってそこにあったのが、疑いようのない事実として”見え”ます。

まったくなにもしゅちょうしない、
まったくじょうけんをもたない、
まったくなににもえいきょうされない、

限りなく透明なもの、は、なかった試しなどない。



”それ”の確認の手立てが、
”どうやったら手に入るか”ではなく、
”どうやっても無くせないもの、一番努力しないで、手に入っちゃってるものは何か?”

になったりしたのは、別の日の実験場。



答えはいつも新鮮であるのが、この実験場のすごさだったりもして。
わかったと思ってるものを、ことを、何度でも手にとって見ることができるのも、この実験場の味わい深いところ。

みなさんの、今日の実験場はいかが?

2016年1月14日木曜日

生きるということ

一年以上前に書いた記事なんですが、今投稿することにしました。

*****

生きていく中で、私たちは様々な軋轢を体験します。人間関係の中で、自分の汚いところ(と、自分で決めている部分)を見るのが大嫌いだった私は、目を閉じての瞑想でそういう動物的な部分とか、反射的で醜い反応を避けて生きることはまさに最適だったんです。スピリチュアリティにむかった動機や原動力そのものが、人としての醜さ、辛さを避けることだったんだから、ことあればそういう方向に向かいたがるのも当然です。

ある意味、死ぬということは、私にとってあまり怖いことではありませんでした。この苦痛を終わりにできるなら、そのほうがいっそ気持ちが楽だと思っていました。生きることのほうがよほど怖い。自分の醜さと直面するほうがよっぽどしんどい。

これは瞑想の教師養成コースを終えて、家に帰ってからも当然続きました。どうかすると、瞑想を通して”きれい”な自分を保とうとする。恍惚感に惚けて、なにもする気がしないのを、どこかで美化する。

定期的に”私は何をしてるんだ?”という問いが湧いて、針路修正が起きます。あのスピリチュアル教師のようになりたい、と真似をしているだけ、という自分に気づいたり、スピリチュアリティというものを通して何かを避ける、または自分の欲しいものを得る、ということをしているだけ、ということに何度も気づきます。

そしてあたりを見回し、私が尊敬する人たちは、単に、本当に興味があって”それ”を見つめ続けているだけだ、ということに気がつきます。

”私は何が欲しいのだろう?” 何に興味があるのだろうか?

この問いに戻るたび、軌道修正がおきます。そして、”人に聞いて正しい答えを早く得ようとする” 知ったつもりになるより、実際にすべて手に取って、確かめてみることへ、向かうようになっています。

人に聞いたことはさておいて、自分にとっての事実とは何なんだろう?


2016年1月5日火曜日

なによりも欲する、ということ


明けましておめでとうございます。
皆さんは良いお正月を過ごされましたか?
いつものように味気ないアメリカの正月ではありましたが、友人宅でカウントダウンなどして、ちょっとだけお正月っ!って感じで楽しかったです(^^)。

****

マスターと弟子が旅の途中、川辺で休息していました。
どうしたら真理を知ることができるのか、と弟子がマスターに尋ねたところ、
マスターは彼の頭をつかんで川に押し込みました。
息ができず、あわや死に至るかと思った瞬間に、マスターは弟子の頭を水中から引き上げ言いました。
”今(この状況の元で)息をしたい、と思う以上に真理を求めるなら、真理を悟るだろう”

細部の違いはあっても、似た様な話を聞いたことのある方はたくさんおられると思います。

”なによりも欲しいと思う”
”ただこれだけを一心に求める”

といった姿勢が、情熱が、献身が、真理を知るには必要であるー。

これ、私にとって長いこと、周期的に湧いてくる”?”でした。
いい仕事が欲しい、いい収入が欲しい、白馬の王子様に出会いたい、美しくなりたい、いい人になりたい・・・

といったもろもろの、competing interest(あれもこれも欲する気持ち)を持たず、ただなによりも真理だけを純粋に求めることが必要なのだ。。。

「確かに、正しい気はする。でもあれこれ諦めたくないし。」
と、いうようなスタート地点から始まって(笑)

「えー、そんなこと言うけど、有名な誰それさんは(私の師カーリーもそうですが)お金も美貌も知性も名声も、全部持ってるじゃーん・・・」
なんてはしたない恨みがましい思いとともに、半信半疑、いじましい思いに満たされ。

「必ず悟れる保障あるならちょっとの間、他を置いといて試してもいいけど」
と、これまたはしたないネゴネゴ根性。

いい生徒であるために試してみたり、急に”最も本気な人”がなんだか格好いいように感じられて目指してみたり、

なんてウロウロしているうちに、いつか”本気”に、”興味”に乗っ取られていました(^^;)。

それでもそこには、”悟り”という神秘体験やステータスの見返り、
あるいはもっと微妙な無意識レベルでただ気持ちよさ、いい気分という代償を求めていたりしたわけですが、

乗っ取りは私の意志に関係なく進んで、やがて、本当に”ただ、”それだけが真の興味になっていました。

見返りを求めていた間には、迷いがいつもつきまとっていたので、
自分の尊敬する人が異口同音に”なによりも真理を求める気持ち”を提唱する(笑)のに出くわすと、不安が湧きました。

ほら、欲しいものを手に入れるのが真の目的だから、正しくやってないかどうか、十分にやっているかどうか=手に入るかどうか、心配になるわけですね(^^)。

で、そういう時点での私の機能基盤は”思考”および”感情”という動き、エネルギーだったので、なによりも求める=感情を盛り上げて燃料とする、と解釈し、行動していました。

当然、このように機能する場合、盛り上がりはしばし続いては振り子のように反対の極に揺れてクラッシュする、ということになります。そして、どこにも至ることもなく、スタート地点に迷い・惨めさとともに着地することになります。

さて、瞑想の教師養成コースに行って、私の最大の野望、”悟り”に永遠と意欲を燃やしていた時、なんと、そういう発言は絶対にしないように思われていたトニー・パーソンズの著書の中に、彼が同じことを言った(なによりも欲しがること)のを発見してしまったのです。

ええっ?という驚きと、でもトニーが言うんだから・・・うん、そうよね、やっぱりなによりもそれを、それだけを求める気持ちと集中が、最後の壁を突破するのに、究極の真理に至るのに必要なんだわ(はっっはっはっはっは!!!)

次に機会があった時、我が師カーリーにそれをすかさず、ちぼっと小出しにしてみました。確認と、もしこれが正しいのであれば、褒め言葉も受け取れるかもしれない、というチャンスだったわけですね(^^)。

カーリーはすかさず、ほぼ必死な感じで(^^;)、折あらばあさっての方向に走り出す、不出来な弟子の誤りを正してくれようとしました。

”彼が言っているのは、すぐにアセンション・アチチュード(瞑想のテクニック)を思い浮かべる、っていうことよ、欲しい、っていう感情の話ではないのよ。”

またまたまたぁ・・・すぐそうやってなんでもアセンションってことにするんだからぁ・・・

”思い込み”と”実際にただ行うこと”の違いがわからなかった私には、”欲しいという感情の話ではない”などと言われても、さっぱりわかりませんでした。

教師養成コースは、アセンションのコースですから、当然アチチュードを思い浮かべる、という表現になりますが、”真に求める”とは、”欲しい”という妄想を温めることではなく、ただ単純に、実際に、視点を”それ”=真なるものに向ける、ということなんだ、

と彼女は言っていたのだ、と真にわかったのは、それから丸2年経った今です(^^;!)

すべての思考・感情は動いています。
この動きは、不快とされる種類の物も含めて面白く、興味ぶかく、私たちの意識・注意を軽々と虜にします。

次から次へと、動きを追って移ろい続ける注意を、そっと、切り替えるー。

なんの努力もなしに、無理することなく、するっと。

ただ単純に意識を戻すこと、それが人工・人造のものでない純粋さそのものです(ってか、純粋さは起こせるものではないんだけど)。

”それ”について知ることにエネルギーを費やすのではなく、
”それ”について考えることに、思いをはせることにエネルギーを費やすのではなく、

ただ、意識が自由さにかえるのにまかせる。
折あるごとに、ありとあらゆる機会で。