2014年9月23日火曜日

瞑想を通して起こりえること:誤った同一化から自由になる

私たちのマインド(物を認識したり、識別したり、思考や判断を下すといったことを可能にする機能・能力)は、本来、とても無垢です。だから教わったことをどんどん吸収します。

空が空という名前だということを覚え、自分の名前は佐藤花子だということを覚え、右というのはこっちの方角だ、といったことを覚えます。社会生活を営む上で便利な能力です。

ただ、マインドは無垢なため、教わったことを鵜呑みにして信じる、という欠点があります。”お前はダメな奴だ”、と言われたら、それを信じ込んでしまったりするのです。”あなたは天才だわっ”というのを信じ込む場合もあります。”ボクは人の言うことを簡単に信じない人間だ”、というのを信じることもあります(笑)。

頭に浮かぶ思考についても、現実とそうでないものの区別がつけられません。誰かに対して、”あの人は私を嫌ってるかもしれない”、という思考がわいたとします。それを何度か頭の中で聞くうちに、それが事実であるかのように信じてしまうのです。そして次に他の誰かとその人の話をするときに、”いやぁ、私はあの人に嫌われてるから。”と発言するような結果になったりします。

思考が自分であると信じ込んでいる状態、思考と自分を同一化している状態は、こんな風に表せます。

ある思考を一点凝視した結果、それが世界のすべてのように見えてしまっている状態です。頭のスクリーン一杯に大声でこんな言葉が聞こえていたら・・・そしてそれが一日中頻繁に起きていたら、本当に辛いですよね。

瞑想、すなわち条件付けられた思考パターンからの解放が起きると、そのような思い込みがゆるみます。すると、こんな感じになります。

スクリーンとそれを知覚している意識の間に距離ができ、もっと大きな全体像が見えます。他にも色んな声が存在していて、”どうせ私なんか”、という声は、たくさんある中の一つであることに気づきます。私=どうせ私なんか、ではないこと、それが単なる思考であることを思い出すのです。物事の本来の姿に気がつく、と言ってもいいでしょう。

これはかなり心の負担を軽くします。そして、前にも言いましたが、これは型にはまった瞑想を通してのみ起こることではありません。野原の真ん中でただ風にふかれているとき、波間に揺られて空を見つめているときに、それまで死にたいくらい悩んでいたことが、急にバカバカしく思えた、という経験は、多くの人がしていると思います。

余計な力が抜ければ、本来の自然なあり方を思い出します。それが私たちに備わっている、自然な生き物としての本能だからです。そのような”ゆるみの機会”、”条件思考から自由になる時間”を与えてくれる瞑想は、どんな形のものであれ、有益です。

逆に私が中学生のときにしていた、ロウソクの炎に集中する、などという瞑想法では、このような”ゆるみ”は起きづらいかと思います(笑)。

ただしこれは、”傍観者”、”観察者”になることがゴールと言っているのではありませんが、それはまた別の機会に書きたいと思います。