2014年9月21日日曜日

”それ”に気がつくこと

中国、唐の時代に黄檗希运(おうばく けうん)という禅僧がいたそうです。彼の教えを伝える『伝心法要』は、Transmission of the Mindというタイトルで英語訳が出版されており、アメリカでも禅のクラシックとして多くの人が高い評価をしています。私は2年ほど前、デービッド・ホーキンズ(『パワーか、フォースか』の著者)のリストで非常に高く評価されていたのを見て買ってみました。

簡潔な言葉で頭をストップさせてしまう、素晴らしい力がある教えだというのが、私の個人的な感想です。強く打たれたことの一つに、”一瞬の閃光によって真実を垣間みることがなければ、どんなに修練を積んでも無駄である”というのがありました。

私たちが真に求めているもの・・・表面意識ではわからなくても、存在の一番深いところで求めているものは何か。この、目で見ることも、耳で聞くことも、肌で触れることも、舌で味わうことも絶対不可能なもの。頭で理解することが不可能で、”感じる”ことすらできないもの。それなのに、常に、あたり中に、すべてに満ち満ちているもの・・・”それ”を垣間みること。”それ”についてひらめきを得ること。

この一瞬の閃光は、努力で起こすことはできません。厳しい修行をしたご褒美に得られるものではありません。善行を積んだら起きることでもありません。ただ、いつもそこいら中にあるものです。すべてがそれでできています。”それ”しか存在していないのです。

ブッダをはじめ、多くの先人が、努力に疲れ果てた末に”それ”に気づく、という経験をしています。そして多くが、それまでいかに無用な努力をしていたかに気づき、”修行の利点は、せいぜい自分の力で物事を成せる、という我の意識を疲労困憊させることくらいだ”、と言っています。

修行なんか一切しなくたって、スピリチュアルの”ス”の字も聞いたことがなくたって、自然と”それ”に気がつく人も多くいるのは、当然のことだと思います。だって私たちは、”それ”以外の何物でもないのですから・・・頭と心がゆるんだ瞬間に、それが突然自明のこととなる。忘れていた事実を単に思い出す・・・ごく自然なことです。

私は初めて”それ”が、忘れることのできないレベルで意識にとまったとき、懐かしい気がしました。ああ、子供の頃に当たり前に知ってたことだ、と思い出しました。私は長年瞑想をしていますが、瞑想の結果起きたことではないことは明白でした。