2014年9月5日金曜日

永遠にこない未来

瞑想、自己観察、自己を受け入れる、今に生きる、、、何をどうやっても、精神世界というものは、未来への努力であると気づいたところです。トニー・パーソンズが口をすっぱくして言っていることですが、正直、なかなか認められなかったというか、未来への努力が好きなので、自分の中で何かと例外を設けていました。

トニーは、「お茶を飲んでいる時、”あ、二階へ行って瞑想しなくちゃ”という思考がわく。お茶を飲む行為は瞑想ではなく、瞑想は未来、二階へ言って座ったところに存在する。」という例をあげ、その発想が馬鹿げたものであることを指摘します。まさに自分のやっていたことで、はっとしましたが、さらに辛いのは、トニーが言うように、未来への努力をしているとき、それを止める手だてなど一切ない、という現実です。

〜になったら〜になれる、と思い込んでいる時、目の前の現実は見過ごされます。

瞑想をして思考が静かになったら、悟りを体験できる。
イライラするのがとまったら、理想の私になれる。

早く大人になりたい、大人になれば好きなことができる。早く家に帰りたい、家にかえったらくつろぐことができる。いい仕事を見つけたい、そうしたら生活を楽しめる。痛みをどけたい、そうしたら幸せで明るい自分に返れる。

人生のほとんどを未来志向で生きてきたので、精神世界でもまったく同じ思考パターンを繰り返しています。本を読んでいても、人の話を聞いていても、いつも結論を探しています。結果に急いで向かうことに意識が集中しています。その習慣がゆるまったように思っても、まだ無意識にやっていることが山ほどあることに気づきます。

本当に欲しいものを手にすることより、永遠に来ない未来に向かって走るのが好きなだけ?

目の前にあるものに意識を戻す時、この気づきすらも単に思考にすぎないことに気がつきます。冷蔵庫の音、右足の親指が左足に触れている感覚、通りの車の音、窓の外の日の光・・・目の前には、ただタイプしている指が存在しているだけ。”永遠に来ない未来”と”私の葛藤”も意義を失って、”私”をがっかりさせます。