2014年9月27日土曜日

瞑想:周囲のものにいつも気づいているのがゴール?

気づく能力、というのは、私たちに生来備わっているもので、特別な能力ではありません。私たちはごく自然に自分の思考に、身体の感覚に、周囲の出来事に気づいています。もし私たちにこの能力がなかったら・・・世界は存在していません。すごく簡単な例でいうと、夜熟睡しているときには、世界は存在していません。

もし興味があったら、今ここで、少しの間目を閉じて、すべてが起きるまんまにしてみて下さい。

頭に色んな考えがわきましたか?家族の声が他の部屋から聞こえましたか?隣人の部屋から食べ物の匂いがしてるのに気づきましたか?

一つのことに気づいて、そこから他へ、また次のものへと、意識が常に自由にあちこち動いているのに気づきましたか?

特定の気になることがあると、注意がそこに縛られてしまうように感じますが、そんなときでも、実は他の出来事に気づいています。ただ、意識が素早く同じ事柄に戻って行く、というだけです。

ストレスにさらされたときに、感覚が研ぎすまされ、通常以上に周囲で起きる事柄を敏感に知覚する、という経験をしたことはありますか?

私たちの現代の生活においては、考えることを過剰に信奉する傾向があるため、私たちの多くが、必要以上に思考に注意を注ぐ癖をつけています。周囲で起きていること、五感・六感が自然に知覚している情報を遮断して、自分の思考にのみ注意を払おうとしているのです。

瞑想を通して、この思考への執着がゆるむと、意識は自由に、広く情報を知覚する状態に戻ります。

ただし、意識を”私”の思うように飼いならす、などということは、間違っても不可能です。次に何に気づくか、どれだけの間そこに注意が向くか、予測することができますか?これから何秒間は音にのみ注意を払う、なんてコントロールが可能だと思いますか?実験してみればすぐにわかることですが、これは不可能です。

意識は奔放です。常に物事に鋭敏に気づいていようとすることは、重複した努力であり、意識の自由な活動を逆に狭めます。”見よう”、”気づこう”とする行為者、無意味な視点、緊張が、そこに保たれるからです。

私にとっての瞑想は、『何もしなかったら、私は何なんだろう』、『すべてのアイデアを捨てたら、人に聞いた話を捨てたら、私は何なんだろう』という問いを、実験的に調べてみる時間です。深い実験の中で、質問も、答えを求める声も消えていきます。ゴールはどこにもありません。