2019年3月13日水曜日

うーん、、、


”ウェブサイトのお引越しします”、
と言ってからはや2ヶ月がすぎ、いまだに引越し完了の気配もありません。

というか、忙しすぎて何もできず。

こんな調子では、引越しどころか自然消滅に繋がるかも、
と思っているところです。

ちなみに、初めてエジプトに行ってきました。
非常に素晴らしい旅でしたが、スケジュールがきつかったので
体がすっかり参っています。

早めに体調を崩し、帰宅する頃には回復し、
翌日から元気に仕事に出かけた旦那に、いつもながら
尊敬の念。



不定期すぎるこのブログ、
読んでくださっている方の数もほんのわずかですが、
その皆さんに感謝しています。

今後の予定は未定なままに。。。。

2019年1月30日水曜日

お引越し

近々ウェブサイトのお引越しをします。
完了後、新しいサイトへのリンクを貼ります。

諸々ご面倒をおかけしますが、
どうか今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m

2019年1月14日月曜日

あけましておめでとうございます / トラピスト修道院でのリトリート



すっかり遅れましたが、あけましておめでとうございます。\(^_^ )( ^_^)/ 
みなさん、よい新年を迎えられましたか?

と、書き始めたのは先週、まだ新年の挨拶が許される時期でしたが、
なんやかんやで書き終えることができないまま、月も半ばとなってしまいました。

今年もぼちぼちやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。m(_ _)m

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新年については、いつもながらアメリカの正月は呆気なく、味気ない、
という以外には何もコメントできることはありません。( - - ;)

が、


クリスマスの1週間、ケンタッキーにあるトラピスト修道院でサイレントリトリートに参加してきました。

通年の異常なギフトショッピングや、異常なギフトオープニング(旦那の実家は丸二日に渡ってこれを行うのです (- -;))から解放されただけでも、ありがたいことこの上なかったですが、

リトリートの素晴らしさは言葉ではとても表わせないものでした。

グーグルのイメージ検索からお借りした写真

トラピストはカトリックの修道会です。
子供の頃カトリックに憧れていたんですが、学校がプロテスタントだったので縁がなく。。。

また憧れと同時に厳格で堅苦しくて、云々、といったイメージも抱いていたのですが、
厳格の意味と方向が私のイメージとまったく違いました。

方向でいうなら内に向かって厳格、そして外に向かって寛容。
意味でいうなら”神のみを見つめる”という意味で厳格、規則はオープン。

もちろん、トラピストの修道会と言っても数多くありますし、ましてやカトリックについては、無数の教会、修道会があります。私の限られた経験(これまで訪れた教会や、信者の知り合い、今回のリトリート)だけで、カトリックを語るわけにはいきません。

が、いずれにせよ、素晴らしかったです。(_ _)



今回訪れたところは、ゲッセマネ大修道院といいます。
リトリートは非常な人気で、通常なかなか予約が取れません。

今回はクリスマスで参加者が減ったので、運よく入れたわけです。
しかも1週間!

ゲッセマネ大修道院のリトリートは、週末3日間コースと、週日5日間コースがあります。そして空きがあると、私たちのように1週間の滞在が可能になります。

料金は完全寄付制。誰がいくら寄付したかはカードや小切手を使わなければ、まったくわからないようになっています。

リトリートQ&Aの中には、以下のような項目があります。
”寄付の金額に目安はありますか?”
”ありません。それは神とあなたの間だけの話です。”
・・・素敵すぎる。



トラピストの修道会は祈りと労働を奨励します。
1日7回の礼拝、自分を振り返る時間、勉強の時間、生活を支えるための労働(ここではフルーツケーキとファッジというお菓子を作っていました)、そして少しの自由時間があります。

日曜やクリスマス、自由時間が増えた時に、礼拝後そのまま自席に残って、
あるいは祭壇に近づいて瞑想・祈りを続ける数人の修道僧の姿には、もう!!
心がふるふるして一緒に残って瞑想せずにはいられませんでした💓

self-gratification、私が得るものへのフォーカスではなく、
神への愛、自分を捧げることへのフォーカス、
というのには、言葉では言い表せない美しさがあります。

私が修道院でみたのは、誰にみられるためでもなく、誰に褒められるためでもなく、
ただひたすら神と自分との関係を見つめる、とてつもなくストイックで
真摯な修道僧の生き様でした。


”礼拝には興味ないから、アセンションしてゆっくりするのかなぁ?”
などと、特にどういう目標も目的もなく、ただ沈黙の時間を楽しみに行ったのですが、

修道僧の礼拝の姿を見た途端にすっかり引き込まれ、1日しっかり自分のペースで
アセンション休憩したあとは、1日7回、朝は3時に始まる礼拝に全部参加せずにはいられませんした。

礼拝しては自室に戻ってアセンション瞑想(礼拝中もしてるけど^^)、ちょっとの読書、ちょっとの散歩。。。

7日間という十分な期間を自分に与えたおかげで、マインドがゆっくりと木の葉のように落ちていく、、、日々さらなる静けさの中へ沈んでいくのに気づくことにもなりました。


自分の中に取り戻されたのは、humbleness.
謙虚さというとちょっと道徳的で違う気がしますが、自分の小ささを深く自覚する気持ちです。


神、というのを何と捉えるか、によって響きは変わってしまいますが、
神に愛を注ぐ、大いなるものに愛と尊敬の気持ちを向ける、というのは、

”私”の悟りを追いかける姿勢、誰が本物か見張ったり、計ったり、比べたり、自分の達成度を気にする中のストイックさに比べると、非常な甘やかさがあります。

原罪とか復唱されるイスラエルへの言及とか、言葉だけを捉えるならまったく共鳴できない要素も多々ありますが、

そんなことは軽〜くスルーして、
エッセンスを全身で味わい、幸せな、ありがたい時間を過ごしました。

かつて自分の中にあったたくさんの思い込みや先入観が消えて、表面上のことを超えて本質を楽しめるようになったのは、ありがたい限りです。

        
           これまたグーグルでお借りした画像。
        


















現在修道僧の人数は一時期に比べて減ったそうですが、それでも30人近くの修道僧が日々7回祈り、すべてを捧げて生きているのですから、相当な場のエネルギーがあります。

依存症からの回復者が祈りの力の助けを借りようと、
あるいは生活に疲れたお母さんが、ほんの1日ゆっくり静かな休息を得るために、
リトリートにやってきます。

誰が何のために来ようと、門は開かれています。
礼拝への強要も一切ありません。

youtubeビデオにも、修道僧の生活を写したものはたくさんありますから、まったく人に知られていない、という訳でもないですが、

こうやって誰に知られることもなく、誰に認められるためでもなく、
ただ祈り、献身している人たちが、実際にはどれほど世界を支えているか、と
感謝を抱かずにはいられませんでした。

そうしてご縁があった何人かの修道僧たちは、
結構世の中の出来事をよく知っており、ユーモアのセンスもバッチリで、
おしゃべり楽しかったです!
(サイレントでも会話できる空間がちゃ〜んと設けられているのです。)


感謝。

2018年12月20日木曜日

祈り

一番最初のポストに書きましたが、私は小さい頃から神様が好きでした。
いろんな神様がいることを知って、知っている限りの神様をカバーすべくお祈りしたので、毎晩とても忙しかったです(笑)。

子供の頃の祈りは、もっぱらお願い事、頼みごとでした。
『神様、これください。』
『明日晴れますように』
『これこれがママにバレませんように』←めっちゃ大事でした(笑)

やがて”後ろの百太郎”の入れ知恵で、お願い事は一方通行ではいけない、ということを学び、お祈りは交渉の色合いを帯びていきました。

『ちゃんと勉強しますので、これこれを叶えてください』
『もっと真面目になりますから、これこれが起きないようにしてください』

交渉はうまくいくときもありましたが、とても大事なことが叶わなかったので、私は神様に怒りを抱えるようになりました。
でもばちが当たるのが怖かったので、、、、
お化けとか、いろんなものを怖がっていたので、お祈りを続けました。

十代の後半から20代の中盤までは、基本的には家族を守ってください、というようなことを祈っていたかな。

それから色々あって、ついにお祈りをやめました。
そして十年近く経って、アセンションを始め、アメリカに渡り、アセンションのコミュニティに参加した時、アセンションに加えて、また時折祈り始めました。
自然に、祷るような気持ちが湧いたんですね。
頭を垂れずにはいられないような気持ちが湧いて。

言葉がわからない、自分だけがいつも取り残されているような孤独感の中で、
愛情が欲しい、とか
一緒に成長できるパートナーを与えてください、
と祈ったこともあります。

極端な痛みがない、スムーズにして最速の成長の道を与えてください、
とこれまた自分好みの願いを発注したこともあります。笑

そしてそれがいつしか、
ただあなたにとって最善なように私を使ってください、
に変わり、

ついに祈りは沈黙になりました。

自分の好みはもうどうでもいいので、本当に神にとって最高の用途に使って、
消耗してください、

と祷るようになってしばらくしたら、
祈りは言葉を失いました。

ただ、頭を垂れるだけーもう言葉で祈れることはなくなりました。

********

祈りとは何か、瞑想とは何かを勉強していて、キリスト教のcontemplationには、観想と黙想という二つの訳が与えられていることを学びました。

言葉にだす祈りに対して黙祷(contemplation)、そしてそのうちに観想と黙想という二つの段階があり、この二つの違いは、
”祈りを捧げている自分が存在しているかいないか”だそうです。

いいですね〜深いですね〜♪

祈りに深く沈むことは、すなわち自分を完全に手放すことですから、
いつしか祈りを捧げる行為者としての私は消えて、
ただ祈りが起きる、という状態に自然に移行します。

これは瞑想でもまったく一緒ですよね。
アセンションでもまったく同じです。
祈る自分と祈りが勝手に現れる間をゆらゆらします。
自分がアセンションするのと、勝手にアセンションが起きることとの間を、
自然にゆらゆらします。

そのゆらゆらが静止して、人生におけるいかなる場面においても、行為者なしに流れに応じて生きるのが、ごく自然な生き方の基盤となる時、
私たちは自我を超える訳です。

(そこからバーナデットが表現する”完全な自己、すなわち意識の消失”に至るのは、
また別の話。)

以下はとても美しいcontemplationの説明の引用ですが・・・今日は時間がないので原文のみ引用ですみません。可能であったら、原文まま、お楽しみください。

He referred to contemplation as "resting in God." In this "resting," the mind and heart are not so much seeking God, as beginning to experience what they have been seeking. This state is not the suspension of all activity, but the reduction of many acts and reflections to a single act or thought in order to sustain one's consent to God's presence and action.
In this traditional understanding, contemplation, or contemplative prayer, is not something that can be achieved through will, but rather is God's gift. It is the opening of mind and heart - one's whole being - to God. Contemplative prayer is a process of interior transformation. It is a relationship initiated by God and leading, if one consents, to divine union.

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明日からキリスト教カトリックの僧院で、サイレントリトリートに参加します。
クリスマスをそこで過ごせる幸せに、ワクワクです。

祈りについて思いを馳せていましたが、
祈りの現場にて、僧たちと共にクリスマスを過ごして来ようと思います。

into the great silence -
大いなる静けさの中へー

・・・おっと、荷造りせねばっ!!

2018年12月17日月曜日

ヒロさんへの感謝

アメリカ時間の昨晩、resonanz360のヒロさんが、ブログ更新停止という案内を出されました。

ヒロさんと、ヒロさんのブログには本当にお世話になったので、おっしゃっていることはとてもよく理解できるながら、残念な気持ちは否めません。

もう5年前になりますか、トニー・パーソンズが縁でヒロさんのブログを発見したのは。

ヒロさんの旅を読むのも、いろんな人について知るのも、読書やコーヒーの話も好きで、
毎回更新を楽しみにしていました。

ブログから伺える人柄がとても好ましくて(実際にお会いしても、とても楽しかったです)、探求の旅も読み応えもあり、楽しい限りだったんですけどね。

背後霊とか先祖霊とか関連ではない、ハードコアなスピリチュアルブログとしては、日本語では初めて見つけたもので、本当に嬉しかった、ワクワクしたのを覚えています。

ヒロさんのブログのおかげで、いろんな方にも出会いましたし、アセンションを習ってくださった方もたくさんいます。

本当に、感謝の念につきません。

すぐにメールしましたが、サイトの様子をみると、かつて使っていたメールでは届かないかも、という感じがしたので、ブログで感謝を表現させていただくことにした次第です。

・・・ヒロさんのことなので、ブログを切り捨てられたのと同時に、それまでご覧になってたブログもぜーんぶ切っちゃいましたー、

くらいのことはありそうですから、このポストも目に触れないかもしれませんが。笑

いずれにしても、心からの感謝を、お伝えしたいと思います。

心変わりして再開されるか、新たなサイトを開かれることがあるやも・・・
そんなことも、楽しみにしています。

何はともあれ、本当にありがとうございました。m(_ _)m

2018年11月20日火曜日

目覚めの報酬はない

目覚めることには実際のところ、ご褒美はありません。

確かに、かつて”私”中心で生きていた(エゴ主体で生きてきた)時に比べると、
人生は自然に流れ、格段に楽だと言えます。

ただしそれは、辛い思いをしないのではなく、
不快なことが起きないのでもなく、
むしろただ、不快なままでいられる、というに過ぎません。

私、私の感じること、私の満足感、といったものの重要性が
限りなくゼロに近くなっていくことで、
自分の体験の質やら、感覚やらが大事じゃない、
よくても悪くても大事なことと思えなくなる、というだけです。

風が吹いた時に、雨が降った時に、嵐がきたときに、文句を垂れるもの、
晴れだったらどんなにいいかと言い続けるものががなくなる、
というだけです。
あるいはそんな声がタラタラ頭を流れても、本気にすることができない、
同化することができない、というだけです。

雨って大事なんだよね!
と、”晴れて欲しい教”から”雨は大事教”に、
信仰が変わったのではありません。

エゴが薄れても、人生が自然に流れるようになっても、
そこで満足せずにさらにたった一つしかない存在の真実とは何か、
見つめ続けていくなら、
”私”にまつわるすべてを放棄することになるので、
私に還ってくる物などなくなるばかりです。

素晴らしいひらめきも、
新しい気づきも、
理解の深まりや、学びの深まりも、
意識の拡大に伴う高揚があっても、

それを大事に楽しむ限り、”私”は存続しますから、
全部放棄することになります。

大いなるものへの畏怖の念だとか、
献身の思いとか、
生きとし生けるものへの深い愛だとか、
すべてとの一体感だとか、

そういうものすら、温めることなく全放棄することになります。

放棄することへの献身も、情熱も、真面目さも、
むろん全放棄です。


”悟りを取るか、1億円を取るかと聞かれたら、迷わず1億円を選べ。”
といったのはラメシュ・バルセカーでしたか。

悟りをとったら楽しむ”私”がいなくなっちゃうけど、
1億円をとれば、ちゃんと自分が残るから、
(なくなっていく不安感もおそらく込みで・笑)1億を持った楽しみを
味わうことができるから、と。

本当に夢から醒めたいと思うか、
要注意。