2015年11月20日金曜日

本当の自分を知るということ



本当の自分を思い出す、ということー
あるいは、まちがった認識や同一視がほどけ落ちるということ。

それは、すべてが変わらないままで、すべてを根本的に変えます。

でも本当の自分を知る、思い出す、というのは非常に微妙というか、trickyな話で。
というのは、どこかにこれまでと別個の、本当の自分という個体が見つかるわけではないからです。
急にまっさらな”私”になって、気持ちよく生きていけます、というような話ではない。
”私”が満足できる”私”になるのとはまったく異なります。

”私”と呼べるものがない中で、同一視できるもの、これとすがって生きるものがない中で、”在る”とすら呼べずに在るー

”私”が思っているのとはまったく違う現実がそこにあります。

私自身は本当の自分を知る、ということを意識的に追いかけてきたわけではなく、さらに現実を見つめれば見つめるほど、”わかった”と言えるものが何もなくなって、それ自体も気にかけることが不可能になっています。

そんな中、アセンションのコースを受けてくれた、ある人の体験を通じて、自分というものに関するあやまった同一視が、すべての苦しみの元であることを改めて教えてもらいました。

私の中に浮かぶ考え、
私がこれまでしてきたこと、

それは”私”である、という思い込み=条件付けとそこから生まれる苦しみ。

もちろん、私がこれまでしてきたと思うことは、今頭に浮かぶ記憶、すなわち古い思考でしかないので、私の中に浮かぶ考え、というものとまったく同じわけですが、いずれにしても、彼女はこれまで自分がしてきたことが頭に浮かんで止まず、なんでそんなことをしたのかと思うと自責の念で死んでしまいたい気持ちになる、と言いました。その瞬間、

ああ、彼女は自分じゃないものを自分と思っているんだな、
すべての苦しみの元は、あやまった自己認識、本当の自分は”何か”を、忘れてしまっているところから来るんだな、

ということがはっきり見えました。

思考、すなわち頭に浮かぶ考え、もしくは意識のスクリーンを通過する想念が自分ではない、ということは、ずいぶん前に経験として知りましたが、その衝撃もすっかり消え去って忘れてしまっていた時に、彼女という鏡を通してもう一度、内に見たものを外に見せてもらったように思います。

本人はもちろん、”言ってることはわかるけど、信じられない”、と言いましたが(^^)。
これは新らしい信念を植え付けることとはまったく違う話なので、信じてもらう必要はありません。むしろ、信じることには一文の価値もありません。
この先淡々と、新らしい道具とともに(ここではアセンション)繰り返し自分で経験し、確認していくしかないことです。

またしてもダグラス・ハーディングの言葉を思い出したりしました。本当の自分を知ることがすべてだって言ってたなぁ、と。

後日、アンバーシェルの本が今の彼女にぴったりに思えたので送ってみました。
誰もがマインドに作られた牢獄の中に生きているけれど、彼は形としても牢獄にある中で、本当の自由を発見しました。自由は外の形式とは一切関係のないところにあります。



そのアンバーシェルを知れたのも、ヒロさんのおかげ。直接メールすればいいのにこんな遠くからなんですが、ありがとうございましたm(_ _)m。
あれ?でも今見たらアンバーシェルの記事が消えてる?(笑)オススメの本も?

2015年11月1日日曜日

The Teacher


瞑想関連のある種の詩のようなものを読んでいて、"The Teacher"という記述がはたと気にとまりました。これまで何度読んでも、まったく意識に止まらなかったのですが。。。

その詩は私たちの精神探求の旅を歌っています。

前半には、ヴェーダの教えに登場する、たくさんのマスター達=教師の名前が並び、彼らへの感謝が綴られています。

そして最後の章で、現象のすべてを超え、探求者が本質に帰る様子が歌われるのですが、そこに"The Teacher"が幾度も登場するわけです。

Theと大文字で始まるTeacherは、唯一の、絶対なる教師を示します。

詩の内容からも、それが人でなく、名前あるものでなく、絶対なるもの、唯一にしてすべてなるものを指しているのは、明かであると感じられたのですが、それまでそんな可能性を意識したことがなかったので、不意をつかれた感じがありました。

気づくと同時に意識が”それ”に飛びー

この目の前に、ありとあらゆるところに、音も形も存在感も一切なく、とぎれなく静かに広がるもの、が、

唯一の教師である
絶対にして無二の教師である、

という事実が急にカチッときて、なぜかとてつもない畏怖の念に襲われました。

すべてを存在させている、すべてを完璧に生かしているこの、知性を超えた知性。

それが真の教師である。

そしてこの教師の存在の前では、頭では間違っても学びえないのだ、ということが細胞レベルで感じられます。どうしてわかるのかわからないのに、これ以上なく明白です。

この教師だけを静かに見つめる。

どこかに絶望的な思いがわきます。
どこかにもっとわかりやすい言葉で、この教師についていく方法を解説しているものがあるのではないかという思いが湧いて、信頼する著書を2−3眺めたりします。

1−2行読んで、すぐに絶望感が湧きます。

人の言葉から得られる助けなどない、なんとすることも絶対にできないのだ、ということが、あまりにも明らかだからです。

そして絶対的な無力感の中で、まっすぐに、教師を見つめます。
震えながら見つめると、

震えも、
それを認識するものも、
なにもかもが消えてしまいます。

Japanology Zen





2015年10月23日金曜日

北から南へ

北のさむーいインディアナから一転、常夏のフロリダへ。


インディアナから7時間運転して翌朝出発ー今夜は爆睡、という気配を体はかもしてたのに、眠りは訪れず、横になったまま瞑想し続けて夜は明け・・・


これはきっと飛行機の中で爆睡ね!ーと思ったら、睡眠は全く起きず、引き続き瞑想。

人様の御宅に入るちょっとした緊張なぞを経験しつつ、それが時間とともに勝手に収まったのに気付きつつ。


消灯ー就寝(^^)

2015年10月17日土曜日

アメリカでの最近のコースについて



インディアナのリトリートに参加中です。

唐突ですが、来週末、10月23日(金)ー25日(日)フロリダ州のパームビーチでアセンションのコースを開催することになりました。

また11月6日(金)ー8日(日)は、アリゾナ州ブルヘッドでコースが開催されます。
このコースには日本から参加して下さる方達がいて、本当にありがたく、楽しみにしています。

どちらのコースも金曜の冒頭はイントロと呼ばれる、無料説明会がありますので、興味のある方はこちらから詳細確認ください。

私にとってはどちらも初めての土地なので、大変楽しみです。


・・・来週末は大阪、11月は東京に、とかではなくて、大変恐縮ですが・・・(_ _;)

世界は意外と狭く、どこでどなたに縁があるかは全くわからないことなので、お知らせしておきす。

2015年10月16日金曜日

宣誓、神の助けとともに

瞑想仲間の結婚式に参列しました。

新郎・新婦ともになかなか色濃いキャラクターで(^^)、どちらかというと結婚についても皆が ”ええ?!素敵じゃな〜い!”などと言うことはなく。。。。

新郎は非常に我が強く、彼の深い心優しさや、真理とか神とか呼ばれるものに対する真摯な思いは、”俺が正しい!”というエゴによって陰ってしまいがちで、人のいうことも素直に聞けないキャラです(でした?)。

彼らの結婚式は、通常の結婚式と大きく異なるものになりました。

まず現在は結婚生活についてのカウンセリングが主な仕事である、という神父さんが、相談を受けた数々の夫婦、および自分の経験を通して、夫婦が実際に感じていることを伝えあう代わりに、いかに瑣末なことで言い争いを続けるか、という話をしました。自分のプライドを捨てて、相手を思いやるのには、往々にして自分以上の力が必要である、と。

それがまったく説教臭くなく、とても真摯な、一対一で個人的な話を聞いているような、心に響くものでした。

続いて新婦に、結婚に関しての決意を自分の言葉で述べるように促しました。
これも、通常の結婚式とは大幅に異なります。

彼女はどちらかというと、人受けばかりを狙って、自分の感情とは切り離されてしまっているような感じの人だったのですが、そこで述べられたメッセージは同じく真摯なもので、神父さんと何度も、深く話し合った様子も感じられました。

そして、くだんの彼の番。。。。

彼女に出会ったことへの感謝を述べようとした彼は、嗚咽をこらえるのがやっとで、言葉を発することができなくなっていました。

神父さんに”大丈夫かい?”と、何度も聞かれながら、かろうじて数行を発した彼は、それ以上話すことを諦め、式は先に進みました。

聖書の一節が読み上げられ、祈りがささげられ、ここで夫婦の宣誓、となりました。

”あなたは彼を(彼女を)、夫として(妻として)受け入れ、どんな時にも支え合うと誓いますか?”
”Yes, I do - with God's help." (神の助けを借りて行うことを誓います。)

Yes, I do with God's help

やられました。

そこまでは彼が泣いてもかろうじてこらえていたのが、耐えきれずテッシュ導入(^^)。

私はアメリカ人の会社の集まりでもキリスト教のお祈りを始める風習(南部なので)が好みでなく、ちょっと斜に構えるところがあったのですが、あの我の強い彼が、”自分だけではできない”と大いなるものに自分の宣誓を委ねた姿に、完全に打ちのめされました。

彼のこれまでのもがき、苦しみを知っているだけに、その言葉の真実が直接的に感じられ。

そしてそれは彼に限ったことなどでは全くなく。

深く、深く、頭が下がっていきました。

自分でできることには限りがあるのだ、と気づくとき、とてつもない解放があります。

本当に美しい結婚式でした。

祈りを捧げる新郎の介添え人

2015年9月20日日曜日

虹の始まりもしくは終わり

虹が高速の路肩に降りているのを見ました。
よもや虹の端っこを目撃しようとは・・・感動。

https://www.youtube.com/watch?v=_7cN8TLY8sk

これはもちろん、自分で撮った写真ではありません(^^;)。
私が見た虹の端っこは路肩の草の上に降りていました(から始まっていた、でもいいんですが・・・)。
そしてもちろん、写真を撮る暇などなく、通り過ぎてしまいました。

でもしっかり見れただけらっきー。

親しい人に聞くと、彼は子供の頃、庭に虹が降りているのを見たことがあるそうです。

当然、虹の根元を見定めに行ったわけですが、近寄ると・・・逃げる。
あれ?と振り返ると、今度は後ろに。

プリズムだから、追っても追っても、捕まえることはできない。

私たちの心の幻想とまったく一緒(^^)。

*****

その心の幻想について、最近深く腑に落ちたことが二つ。

一つは・・・気がついて笑っちゃったんですが、

”自由になりたい”といいながら、どれだけ心の幻想の中にある、ある特定の型=結果を追い求めていたか、ということ。

例えば瞑想でも、悟りでも、なんでもいいんですけど、

もし”わかったら、到達したなら、正しくやったら、こうなる”という特定の型があるならば、

それはもう、まったく自由ではないんですね。

だって、新しい型=定義にはまることが目標になっているんだから。

これは自由どころか、苦しみの元でしかない。

静けさの経験の後にちょっとマインドが賑やかさを取り戻したら”なんで?!”と苦しむ、
無や至福の経験の後に怒りや嫉妬が沸いたら、悟りを失った、と苦しむ、

なんて混乱は、そういう誤解からきているんだけど、それがわからなくて、それに気づかなくて。

”どんなことでも起こり得るから自由なんだ”

という当たり前のことが唐突に腑に落ちたときには、それこそ深い開放感と安堵感がありました。


もう一つは、その心の幻想の深さ。


expectation、期待、心に抱いている幻想に基づいて、私たちは幸せやら不幸やら、アップ・ダウン、感謝から恨みまで、様々な、色とりどりな感情を経験します。

心に抱いているイメージに叶ったものは喜び、興奮、ラッキー感等々として解釈されますし、

イメージに反するものは不満、怒り、失望等々として解釈・経験されます。

・・・イメージおよび期待するものがなかったら、起きることは起きることでしかないんですが、

この条件付けは非常に深い。思っていたより、気付いていたより。




ああ、そっかぁ。。。。




そんな気づきも、あっという間に消えていく。


新しく定義できるものなど、なにひとつないまんま、


身の回りに秋の気配がただよいはじめています(^^)。




2015年8月24日月曜日

スピリチュアルな暴力

『スピリチュアルな人っていうのは、もっとも暴力的であったりする。

そういう人たちは主だって、自分に対して暴力的である。 
自分のマインド、感情、体をコントロールしようと暴力的な努力をする。
条件づけられたマインドが信じる、あるべき悟りの姿に達することができないといって自分に腹を立て、自分を鞭打つ。

そんな暴力を通じて自由に達する人などいない。』(アディヤシャンティ)

(Spiritual people can be some of the most violent people you will ever meet. Mostly, they are violent to themselves. They violently try to control their minds, their emotions, and their bodies. They become upset with themselves and beat themselves up for not rising up to the conditioned mind's idea of what it believes enlightenment to be. No one ever became free through such violence. )

最近、どんなに目についても自然と素通りばかりしていたアディヤのFBですが、これには実感を伴うものがあって、しっかり立ち止まりました。


すでに思い浮かんで、とっくに去ってしまった思考について、
「こんなことを考えたなんて」
と自分を責めまくる。

記憶なんて、あてにならない古い思考をもとに、過去の行為、発言について
自分をののしる。

どうしてもっと早く、もっと高く、もっと素晴らしくならないのか。

うーむ、、、誰が私に一番意地悪って、わ・た・し、でした。


『自然であること、楽に、努力をしないことが肝心なんだよ』
という瞑想法を教わっても、強引にそれを使って自分を鞭打ち続けていたし(^^)。

だけどそんな乱暴さも、1秒早くも、1秒遅くにも終わらなくて。

気がつくと、もっと力が抜けて、もっと抜けて、抜けてきたけど、
それは本当に、なんの努力によるものでもないんですね。

そして”それ”は、

力が入っていても、
力が抜けていても、
自分に暴力的であっても、
自分に優しくあっても、

そのすべてであって、一切関係ない、という。

なんという、無条件な。

かつては”きっとこう”、”こういうもののはず”、
というものを探し追い続けていましたが、

”これはどこ?”
というもの探しから、

”一番探さないでいつもあるものはなに?”

”もっとも努力しないで、手に入る・・・手に入りっぱなしで失いようのないものはなに?”

という確認に変わり。

その確認はまいしゅん新鮮であり続けるという、

素晴らしいいのちの魔法があります。

2015年8月10日月曜日

死と復活と 

たんに普通に、生きるのが忙しくてご無沙汰しましたm(_ _)m。
死、なんて始めておきながらなんですが。

仏教徒は仏教の教えが、キリスト教徒はキリスト教の教えが、同じ真理に反射するのを見るんだよ、

なんて私の親しい人が言ったことがあります。

その美しさにハッとしたのを覚えています。

そしてその事実に繰り返し打たれています。

私の場合はたまたま、アセンションと呼ばれる瞑想法になりますが、それを通して示されるものを、同じ木霊を、あちこちにみます。

ダグラス・ハーディングもその一人です。

ダグラスの言葉には、これ以上ない美しさと真摯さ、生への感謝が溢れていて、非常な共振を起こさせるものがあります。

自分と思っていた条件がゆるんでゆるんで、誰でもない自分を知れば知るほど、すべてのことにやたらな感謝がわいてしまうのは、もうどうしようもないことであると、体感しています。彼の表現には、それが溢れています。

キリストの教えに関する彼のコメントも、同じくとてつもなく美しいものです。

『自分とは何かを知ることは、死を意味する。』だから人は”それ”を恐れる。抵抗する。『たとえその直後に復活が続いていても。』

”私”が死ぬたび”すべてなるもの”がよみがえる・・・・

その事実と美しさ。

”私”のしぶとさを語るとき、その”復活力”のすごさが話題になったりはよくしますが、その手前、その寸前に起きている、”真のよみがえり”は、すいと素通りされていたりします。でもこのすべてが死に絶える瞬間、ただ命なる、あの限りないものがあらわになる瞬間・・・すべてが消え入り、すべてがただあるあの・・・すべてが止まることで、すべてがあらわになるあの 静。

そこにすべてがあります。

それにはほんの一瞬、心が止まるだけでいい。

内でもない、外でもないものに、つっと何かが・・・意識なんて呼ばれるものがふいと向かうだけでいい。

他に必要なものは何一つない。

準備もいらない。練習もいらない。

そして同時に、

『自分を見るのは簡単である。
だけど、常に するのは難しい。』

常にみるのは修行でも、覚悟でもない、”見た”ことから自然に起きる、副作用みたいなものだと感じています。そもそも、みたいという衝動じたい、どこから勝手にやってくるのか、誰もわかってなどいないでしょう。

ゴールのない瞑想(笑)アセンションをしまくって、すべての音量が最大になるというか、なにがなんだかさっぱりわからないすごさの中にあるという、素晴らしい週末を過ごしました。

そしてそれについて書くのかと思ったら、ずーっと前から心にとまっていたダグラスの話が、唐突に出口を見つけて出て行ったみたいです(^^)。よかった、よかった。ははは。

2015年7月25日土曜日

”なぜ”のゆくえ

『'Why' questions - ”なぜ”、”どうして”という問いは、なんの役にも立たない 』

と言ったのは、私の師カーリーでしたが、もちろん彼女のオリジナルではありません。
数々のスピリチュアルな有名どころが似たようなことを言っています。

なんでこうなったの?

どうしてあの人(私)ってこうなの?

なんでこんなことが起きるの?


こういった問いの行き先は・・・・





ぐ〜るぐる〜

思考のらせん階段を昇ったり降りたり。

出口のないままにぐ〜るぐる。

ここでじっと、ぐるぐるするままであれる、

というようなラッキーな事のなりゆきが起きた場合には、

自然に、それと気がつくと、ぐるぐるが終わっていることに気づきます。

問いもぐるぐるも自然消滅。


”なんで?どうして?”に

エネルギーを注ぎ続けることが起きた場合には・・・

写真 http://gigazine.net/news/20080702_tired_cat/

限りない’疲れ’が待っています。



私の経験上、もちっとよろしくなかったのは、むしろ”答えが見つかった”場合。

どうしても答えが欲しいから、

”なぜ?どうして?”の答えが見つかれば、解決策が見つかって、

未来の防護策になると思っていたから、

どうしようもなく常に安心していたかったから、

答えらしきものにすぐに飛びつく、ということがよく起きました。


そして満足 - するのは一瞬。

得意気に新しい答えを掲げ、それにすがって生きていると、
どこかで必ず

誰かが、何かがやってきて、

その答えは間違っている、といいます。

あるいはよそに、”もっと正しそうな”答えが見えて、
「あれ?やばい。乗り換えなくちゃっ」

というようなことが起きます。

そうして結局 

繰り返した挙句は

ここまで行けば、どうにもあきらめるしかない、という事態が無選択に起きるのですが、

http://alleycat1970.blogspot.com/2014_03_01_archive.html



下手に体力が、しぶとさがあるがゆえにだらだらとした疲れが続き

非常に、慢性的に疲れました。


答えがある、とおもってたんだもんなぁ、

こたえなどない、といわれても、

みつかるとおもってたんだもんなぁ

こたえがない、というこたえがみつかる、とすら、

おもってたんだから、。。。すごい。




あら?気がついたら、前回と内容が被ってましたね。
ははは。


2015年7月14日火曜日

わからないままでいられること


夕焼けのように見える朝焼けー

2−3週間くらい前かな?それこそ唐突にジョーイ・ロットの"Don't Change A Thing"を読んでしまいました。なにかおかしいな、とひっかかることがあったところに、Facebookでいつものようにジョーイが、99セント(約100円)サービスの宣伝をしていたのが目に付いたからです。

2週間以上たった今となっては、恐ろしいことに、一言も内容を思い出せないのだけれど、すごくよかった(^^; こんな言い方じゃ誰も信じない?)とても助けになったのだけはしっかり印象に残っています。

そこへもってきて、ジョーイがここ最近ブログをつぎつぎとアップするもんだから、なんとなくそれも目について・・・

一番最近のブログ(ちんたら書いてるうちに、次のブログがアップされてしまいました)が、またとてもよかった。


『”探求”という行為は、”わかることができる”ということを前提にしている。またわかろうとすること、理解しようとすることは、いいこととされがちだけど、苦しみから逃れたい、というのが強い動機になっている。』


理解しようとする行為は、わかることができる、という推測を前提に成り立っている・・・

どこかに到着点があることが前提になっている。

今目の前に起きていることは納得がいかないけど、どこかにちゃんと解決策がある。

辿りついたらもう安心、ちゃんちゃん! −という地点があって、とにかくそこへたどり着くために、ひたすらに、やみくもに探し求める。

「そんなの全然あたらしくないよー、前にも他の誰かが言ってたよ。」

と言われるかもしれませんが、改めてなるほど、と思いました。

”わかることができる”という刷り込みはそうとう深く、それが苦しみを生んでいる、ということに気づいたところだったからかもしれません。

あれ?ジョーイ読んで気づいたんだったかな?・・・

2015年7月8日水曜日

”私”ちがい

ニサルガダッタ・マハラジがその師に、「ただ”私”に意識を向け続けなさい」と言われて、純粋に、ただ言われた通りにやり続け、3年で完全に”在る”ということの本質に目覚めた、というのは(知る人の間では^^)とても有名な話です。

っていうか、すごい話です。

師に会ったのは数回。本当にただ、自分一人で座り続け、見つめ続け。

3年たって完全に本質に目覚めた後も、一度はどこかの山奥に、さらなる深みを求めて行こうとし、その道中でそんな山に行く必要はない、ということに気づいたといいますから、ちょっとはそんな普通の血迷いもあったようですが、様々な瞑想と迷走を続けた我が身を振り返り、そのひたむきさはちょっと真似できん、という感じです。

それ以上にすごいと思うのは、
「”私”に意識を向けなさい」とだけ言われて、それができたこと?

私は10年以上前に”すごい本だ”と聞いて早速 I AM THAT を買っ(てもらっ)たのですが、読んだのはその3年後で、未だに通しで読んだことはありません(^^;)。

初めて読んだとき、『なんだぁ!”私”に集中すればよかったんだぁ!簡単じゃーん!』と本気で大喜びし、我が師カーリーに勇んで報告。

『ニサルガダッタ読んで、やっとわかったわ!”私”に集中すればいいって!これでもう、すればいいことがわかって、迷うことないわー。』

我が師は焦った顔で言いました。
『彼の言っている”私”は、普通に言う”私”ではないのよ。』

つまり、パーソナリテイ的な”私”という感覚ではなく、存在そのものとしての”在る”という感覚なのだ、と。すごい簡単でシンプルな解決策を知ったと思ったのに、そこにトリックがあった(らしい)と知ってがっかりしました(_ _;)。

ただ、つい昨今(っていうか昨日?)、ヒロさんオススメのジョン・シャーマンのインタビューを聞いて学んだところでは、(知る人の間では有名な)ラマナ・マハリシは、”エゴをしっかりつかまえて放すな”と言ったそうなので、また、この方も一人で座り続けた人なので、

いわゆる”私”を注視したとしても、遅かれ早かれ、同じことに気づかざるを得ないのではないかなー、などという、意味のない考えが浮かんだりしていた夕べでした。

さて、積極的な、躍動的な意識を” わたし”と思っているものに向けたら、なにが見つかるのか。なにが”わたし”と思えるのか。

は、

自分で見てみるしかありません。

どこかで聞いた(どうやら)正しい(らしい)答えを捨てて、隙だらけで、無防備に、見てみるしかありません。

しかも、まいしゅん(毎瞬間)。

だって、

それが単に気になるから(^^)。

ただどうしてもやっちゃうから。

2015年6月28日日曜日

層 layer 、あるいはらせん - part 2


昨今、映画を見てもテレビを見ても、物語は指の間からこぼれおちる砂のように、見る先からすり抜けていって、記憶にとどめるのがほとんど不可能のような感じがしていました。

物語が進行している間は、刺激に対する反応が体に起きるのですが、それを支える物語が頭にとどまることがないので、見終わって残るのは体に起きた感覚反応の余韻だけ、とでもいうか。

そしてそれが
最近のトレンドだな、

とか、

近頃こういう風になった、
なぞと思った途端にどっと、反対が押し寄せました。

”AはBだ” 
なんていう定義を持った瞬間に、反対の極に大揺れ。

反対の経験が起きること自体になんら問題はないのですが、そこにわずかな苦しみが伴っていることに警報のようなものが鳴って、

なにかおかしいんじゃないの、と。で、

ああ、またある特定の経験を特別視していたんだな、
あたかもなにかに向かって進化・進歩したように 思う、というその思考を信じていたんだな、と気づいて、

ああ、またもやらせん階段だ。同じような経験を、くりかえし、くりかえす。
終わったと思っても、さらに微妙な、精妙な感じでまだ巡ってるーーー

なんて思考がわいたと思ったら、

だれが、”なに”が、その思考を信じていたんだろう?
という思考が即座にやってきて、

さらに、

本当に同じ経験をくりかえしたんだろうか?と。

ほんとうに、まえにもおなじけいけんをしたというしょうこはあるんだろうか?と。

こたえを探さない、ただの問いによって、答えをえるかわりに、足元が、すべてが完全にどしゃん、

とくずれて、

次にちょっとした恐怖がわきます。

その沈黙につながる問いをまったりとたどること数日?

なにかの拍子にやいっ!と、
反対のアイデンティティーに飛び込むような感じのことが起きました。

ほとんど面倒くささから(笑)。

そうしたら、あまりにすべてが、まちがいようもなくわかれていなくて、

その中から”わたし”が、”わたし”することや、

混乱と思える思考も起きては消えていて、それが問題であると思うことは、
狂気の沙汰としか思えない。

花火も飛ばない、火花も散らない、天使もラッパ吹かないごく普通の、

ひょいとした認識の転換だけで、自然の現実が当然ながらそこにあります。

”こちら側”から”あちら側”を理解しようとするのではなくて、

どっちかというと、飛び込むというよりも、もっと無重力な。。。

ぽんぽんぽん、と、すべての服をあたりじゅうにほうりだして

宙に浮かんですっぽんぽんの自由さにかえる感じに近いような。

2015年6月22日月曜日

層 layer - part 1

前回のポストで、ゆりさんのtwitterを紹介させて頂いたのですが、リンクをつけ忘れてしまいまして・・・(_ _;) 数日たって気がついてリンクを貼ったのですが、念のためここに再度。”おかえりミミコ”。

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数ヶ月前に書いて、投稿せずにいた記事です。


あ、という気づきがあっても、それは時間とともに去って行って(どんなに深い気づきと思えたことでも、例外がありません)、自分がまたどこにいるのかわからなくなります。
そしてしばらくすると、また”もう学び終えた”と思ったことが、深いレベルで沸き上がって来る。前よりもっと、根深い部分が沸き上がって来る。

それをまた見る。

単純なことが、すべてものすごく根深かったりすることに気づいたりします。そして気づきと、それに伴うちょっとした嵐をまたじっと見る。

UGは”どんなささやかな、ちょっとした努力も、自然の流れの純粋さをけがすものだ”とあちこちで言っていました。
アディヤは真の瞑想は、まずすべてをありのままにすることからはじまる、と言いました。

物事をありのままにしておけるようになるには、相当な勇気がいりました。見たくないものが見えても動かない。起きて欲しくない感情が起きても動かない。何かしなくちゃ、早く直さなくちゃ、とか、早く楽になりたいとか、そのすべてをただ見つめるだけで何もしない・・・

平気でいれること。それにはすごく勇気がいりました。だんだん、だんだん平気でいれるようになって、それにつれて見えてくるもの、湧いて来るものがあります。

触ってしまうと、”私”の意図がかかると、全体像が見えません。すべてをありのままにしたら、そこにあるのは何だろう。

ここにあるのは何だろう。

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2015年6月10日水曜日

素敵な再発見

4月にヒロさんにお会いした際に、ミナトさんのブログ(この世界で知っておくべき、たった一つのこと)の素敵さについて盛り上がったりしたのですが、その際、「でもミナトさんのブログは、英語に訳せないんですよー。」なんてことを言ったりしてました。

文化的な背景や、文字のサイズやらカッコ内の小さなつぶやきが運ぶ、あの微妙なニュアンスは、とても英語にできないーーー

と、思っていたんですが。

ブログを読んでは天井を仰いで大笑いする私を、ねたましそうに眺めていた夫があまりせっつくので、んー・・・ま、ひとつ試してみるか、と。

そ・う・し・た・ら

受けました。とても受けました(^^)/

ま、そこは夫婦ですので、私の下手くそな英語でも、言わんとすることを汲んでもらえる、というのはあります。

世界のミナト?!

ちなみにその記事はこれですが、最新のこの記事も、いつもながらお見事です。

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同じくヒロさんのブログで知った、『ノーマインド オールライフ アイアムザットアイアム』というブログ。

以前に何度か読んでみて、アートだなぁ、と思うくらいで、あまり入っていけずにおりました(^^;)。

そ・れ・が

ヒロさんにお会いした後、アメリカに戻ってから、ふいにツボにはまってしまいーの。

あのアートな写真にも、言葉の概念を完全にぶち壊している言葉づかいにも、あのシュールなイラストにも、そして何より、ブログの根底に流れる(あるいは全体に満ち満ちている)生命への、すべてへの深い愛の美しさに、心を打たれっぱなしです(それに笑えます)。ああ、、、、と惚けます。ジーンときます。それから笑い転げます。


瞑想教師になるコースで、最初に”それ”をはっきり見たあと、1度目の混乱がきたときのことを思い出しました。

我が師カーリーに再確認を持ちかけたのですが、じっと確認するうちに、はたと、”私は頭でわかりえないことを、頭で理解しようとしてたんだな”、ということがわかり、混乱終了。

それと同じ感じがしました。

頭でわかるもんじゃないものを体現しているブログを、”読もう”としてたから、ピンとこなかったんだな、と。

ただ飛び込んで、感覚に遊ばれるまま、溶けるがままになるようにできてるブログなのに(笑)。そしてつかの間遊んだら、自然に、意図せずに、現実と信じてきたものに切れ目が入ってしまうブログなのに(笑)。

悟り(なんじゃそりゃー)に目がくらんで、遊べる心を忘れてしまってはいけません(^^)。

そんなわけで、時間があるときは、日がなつらつらとページをめくり、読みふけったりしています。

最新の記事はこれまた、素敵だったなー。これ。もしくはこのビュー
どうやってこんな写真を作ったのやら・・・

*******

最後に、大好きだったゆりさんのtwitterをしばらく前に再発見。

そよ吹く風のようで大好きだったゆりさんのつぶやき。アカウントが閉じたときはとても残念だったんですが、別のアカウントで始められたと知って大喜び(^^)/。

おかえりミミコという名前に改名。
生の私と無私の間でゆれる、素敵なつぶやきです。

*******

以上、素敵な再発見、3連発でした。


・・・+1。

ちょっと前ですが、理由もなく、対象もなく、ただ感謝が溢れまくってしまう、という日々が続いていたことがありました。

そんな折に、ある方からそれはそれは、感謝にあふれたメールをいただきまして。

私が感謝されるような何かをした、とはとても思えなかったのですが、そんな溢れるような感謝の表現を発するその方に、なんて素敵なんだろう、と、これまた深い感謝を感じずにはおれませんでした。

ひとみさん、ありがとう。

2015年6月9日火曜日

欲しい物を手に入れるのに、誰を待つ必要もない

たまたま耳に入ってきたケイティ(バイロン・ケイティ)のトークに、またしてもワクワクしてしまいましたのでシェア。靴下を片付けない子供に対する怒り、についてから抜粋です(^^)。

”子供達は言うことを聞かない、感謝の気持ちがない、汚す・・・どうして毎日同じこと言わなくちゃならないのよ!

という風にかつては思ったの。

お母さんがそういうのを聞いたし、お祖母さんの言葉やら・・・それはただ伝えられて・・・私たちは親や祖父母や家族の傾向をそのまま受け継いぐのよね。

毎朝床の靴下を見ては、どうしてこんなことができるの、私を尊敬してないんだわ、私を愛してないんだわ、という思いを抱いてたの。

そしてある日、ワークが私を発見して・・・

ある朝娘の部屋に入っていったんだけど、娘が靴下を片付けるべきだ、っていう思考が湧いて、その瞬間に思考のひっくり返しが素早くおきて、

娘は靴下を片付けるべきだ → 私は靴下を片付けるべきだ、って。

靴下に手を伸ばしてつかんで、洗濯カゴに入れて、床を眺めたら・・・

なんて素晴らしいの!

それこそが私が欲しかったものすべてだったのよ。娘に与えてもらう必要はないのよ。
私が欲しかった美を手に入れるのに、娘にしてもらう必要はなかったのよ。

私はそれはもう、嬉しくて、幸せて、それから人生のすべてを同じ方法で生きるようになったの。”

わははは。ケイティ、最高。


2015年6月2日火曜日

こんな感じで

久しぶりの会社勤めなぞを楽しんでおります。

知り合いからの紹介で、探しもせず、面接もせずに手に入ってしまった、短期の理想的なお仕事です。



知り合いの顔を潰したらどうしよう

とか、

ああ、いい仕事してないかも

とか、

失敗することへの恐怖

とか、

楽しく、とめどなく、時に嵐のように思考が湧いてくるのですが、
それを捕まえて信じようとするより早く、物事は起きて・・・

例えば、”今日は残ってしっかり仕事してるところを見せたい”

というおなじみの思考が湧くのに

さっさと帰宅して行く体がおり、

心配事に注意を払いたい、という思考があるのに

無視してさっさと掃除にとりかかる体がおり。


え?そう出るんですか?

おんや?こんなはずでは・・・


と、思考はいつも起きていることに一歩おくれ。


ほぅ!



思考につかまることを恐れているのは、ただの思考にすぎないので

はたと気づくと同時に、私ごと全部、消えてみたりします。

2015年5月28日木曜日

目を覚ましなさい:アンソニー・デ・メロ

アンソニー・デ・メロという、辛口トークが最高なインド人の神父さんがいました。
以下は私が大好きな彼のトークから、一部抜粋です。

”人は眠りの状態で生まれ、眠ったまま生活し、眠りの中で結婚し、眠りの中で子育てし、まるで目を覚ますことなく、眠りの中で死んでいく。 私たちが人間の存在と呼んでいるものの美しさ、素晴らしさを、決して理解することはない。

去年、スペイン語のテレビ番組で、こんな話を聞きました。

ある人が息子の部屋のドアをノックしました。
「ジェイミー、起きなさい!」

ジェイミーが答えました。
「起きたくないよ、パパ。」

お父さんは怒鳴りました。
「起きなさい、学校に行かなきゃならないだろう!」

ジェイミーは言いました。
「学校なんて行きたくないよ。」

お父さんが聞きました。
「どうしてだ?」

「3つ理由があるんだ。」
とジェイミーが言いました。
「1.つまんない、2.子供達にからかわれる、3.僕は学校が嫌いなんだ。」

それを受けてお父さんが言いました。
「なら、お前が学校に行かなくちゃならない理由を3つ挙げよう。1.それがお前の義務だからだ。2.お前は45歳だからだ。3.お前は校長だからだ。」

起きなさい、目を覚ましなさい!お前はもう大人なんだ。眠ったままでいるには年を取りすぎだ。目を覚ませ!おもちゃで遊ぶのはもうやめにしなさい。

多くの人が幼稚園から抜け出したい、というけど、信じちゃだめだよ。信じちゃだめだ!彼らは壊れたおもちゃを直して欲しいだけなんだ・・・(中略)最も優秀な心理学者ですら言うだろう。人は治療なんて本当は求めてない。痛みを和らげたいだけなんだ。治療は痛みを伴う。起きるのは気分のいいものじゃないんだ。布団の中はいい感じで快適なのに、起こされるのはイラつくもんだ。”



ほんと、いい味出してます。

2015年5月18日月曜日

”私と父は一つである”

『なぜか聖書』シリーズ(笑)。

瞑想教師になるためのトレーニングを受けていたときのことですが、”それ”が何か、はっきりわかったと思った後、混乱に陥りました。2回目の混乱の大きな要因は、本当にわかったなら、”それ”を表現できなくてはならないはずなのに、私には”それ”を表現することなどできない、ということでした。

っていうことは、わかったように思ったけど、実は間違っているんではないか・・・?

早速先生のもとへ走ったわけですが、先生との会話は、だいたい以下のような感じに運びました。

私「わかったと思ったのに、とても表現できないんだけど。」
先生「?・・・ああ!理解を完璧にしようと思ってるのね?」
私「そうじゃなくて(絶対そうだったのに、完全否認 (_ _;))・・・本当にわかったなら、表現できないといけないんでしょう?」
先生「誰がそんなこと言ったの?」
私「だって、昨夜もミーティングでそう言ったじゃない??」
先生「そういう風に聞いた、ってことよね。必ずしもそれがそこで言われたこととは限らないわ。」
私「ムムム・・・(またそういう微妙な切り返しをするんだから・・・)」
先生「”それ”を表現することはできないけど、”それ”であることから表現が起きるというのはあるわよね。」
私「うーん・・・私にとっては、色も形も性質もないもので、とても表現するなんてできないんだけど(頑固)。」

彼女は、そう、表現できるものではないわよね、という深い同意を示した直後に、するすると、”それ”を表現し始めました。

先生「これ・・・そこにある椅子であって、この階段の手すりであって、あの花であるもの。あなたであり、”私”でありながら、私はそれである(I am THAT)というにはあまりにも大きくて、おこがましくすら感じられたりする・・・」


そうよね、表現できないわよね、というふうな同意を示した延長上でスルスルと表現した先生には、いつもながらまったく・・・これなんだから、という、呆れにも似た思いに駆られたりしたのですが(同意を示したということ自体、私の解釈でしかなかったんですけど)、同時に、彼女の表現の美しさに魂が魅了される思いでした。

そしてふいに、聖書の2つの節が意識に上って・・・あるいはどっかから降ってきました。

 I and my father are one 私と父は一つである
My father is greater than I. 父は私より偉大である。

圧倒的な体感をともなう理解がもたらされ、”ああ、私はこれを絶対忘れることはないだろう、もう迷うことはないだろう”、などと思いました。

・・・も、ち、ろ、ん!みなさま、おわかりのように・・・”わかった”、なぞと思う限り、その後もしっかり迷うのですが (⌒▽⌒)

2015年5月15日金曜日

穴が空いたら:『あの方は栄え・・・』part 3

さて、He must increase, I must decrease 第三弾、バーナデット編です(笑)。
(前記事のこれこれを読んでいただくと、助けになるかもしれません。)

バーナデットは人が本質に還る過程の中には、二つの大きな転換点があるといいます。

一つ目はエゴがなくなること。
二つ目は自己がなくなること。

そして彼女は、人間の意識を円に例え、その過程を表現しました。

人の意識の中心には、針の先ほどの穴が開いている。

人の意識は”すべてなるもの”の上に薄くかかったベールのようなものなので、この穴を通して見えるのは当然、すべての生命の背後にあるもの(本当は別に後ろじゃないけど)、すべての存在の源です。無限なるもの、と言ってもいいかな。


なので、この ”穴”、自分の中心(と思われるもの)に意識を集中することによって、人は初めは神の神秘、大いなるものを発見するわけです。

そしてエゴがなくなると、


こんな風にポカッと中心に大穴が開き、ドーナッツ状態になります。

さてここで。。。。


穴が大きくなると、ベールに覆われていたものの見える量が思いっきり増えます。まだそんなに大きくないけれど、針の穴に比べたら、もう否定できないはっきりさです。


かつては何かが起きると、その傷は出口を発見する前に、あちらこちらにさんざんぶち当たっていましたが、


穴が大きくなったので、より素早く、すべてが流れるようになります。

人の意識は常に自分に向かってかがみこんでいるので、


針の穴時代に見えていたのは、”私”という条件付けがほとんどでしたが、ドーナッツになると、


条件付けも見えるけど、”無限のものとしての自分”が、前より遥かにはっきり見えるわけです。

さらに、針の穴時代は、”私”が神を、真理を、悟りを探していましたが、
ドーナッツになると、”私”の意思ではなく、”それ”に突き動かされる形になるといいます。

一度ドーナッツになると、中心から変容の炎が燃えて、”私”を焼いていくようになります。そして穴はどんどん、大きくなります。


やがて”私”がかすかな線になり・・・さらに完全に消滅するまで。


He、すべてなるものは、栄えなくてはならないのではなく、勝手に、自然に、その生命の流れに従って無用なものを焼き尽くすわけですね。

彼女のビデオや本に興味のある方は、こちらをどうぞ(残念ながら英語のみになります)。

2015年5月13日水曜日

『あの方は栄え・・・』part 2

『あの方は栄え、私は衰えなければならない』というのは、ヨハネという個人の、イエスという個人に向けた言葉であるとされています。通常はヨハネの謙虚さが語られるところです。

私は数年前に、この言葉の違う解釈に出会いました。

『一度”それ”に気づいたら、それをじっと見つめ続けるのよ』
と、私の先生は言いました。そしてそれに続けて、

『真なるものが姿をあらわにするには、偽なるものが消えなくてはならない。He must increase, I must decrease - 』

それが聖書の引用であることは、なんとなく察しがついたのですが、言葉のインパクトを実際に感じたのは、それからまたずっと後のことです。

と、いうか、つい最近?(^^)

”私”が消えるほどに、”それ”があらわになる 。

must, ”〜なくてはならない”、という言葉は、個としての自分、”私”が努力することと思わせます。しかし・・・”私”に”私”は消せない、減らせない。無理、無理。

”それ”、あるいは”これ”に到達しよう、とか、それを本当にわかろう、とかする努力のすべてが、逆に”私”を顕在化します。

ほんのささやかな努力も、意思も、 意図も、”私”という緊張を維持します。

と、わかるだけで、どんどんと、どんどんと、ハラハラと、力が抜けていきます。

昔は覚悟すること、というのは、力強く立ち向かうことのように思っていましたが、今の私にある覚悟といえば、”負け続ける”ことへの覚悟しかありません。

わからないままで

”私”がいるままで

どんなことも、それより1秒早くも、1秒遅くも起きなくて

”それ”、”これ”を見つめようとすることすらあきらめて、へなへなと、打たれっぱなしになる・・・

と、

この、なにか、が、圧倒的にそこいら中に満ちているのが。。。


2015年5月8日金曜日

”あの方は栄え、私は衰えねばならない He must increase, I must decrease”

”あの方は栄え、私は衰えねばならない(He must increase, I must decrease)” というのは、バプテスマのヨハネという人の言葉で、イエスに洗礼を施したヨハネが、イエスの出現を祝福して言った言葉とされています(超簡易説明 ^^;)。

えー・・・ちなみに私は、『キャンディ・キャンディ』という漫画に憧れて、中学・高校とキリスト教系の学校に通いましたが、そこでキリスト教に幻滅してしまいました(カソリックに行きたかったのに、それは叶いませんでしたし)。

そして密教に憧れたりもしましたし・・・つまり、特定の宗教、宗派に属してはいません。あ!家族崩壊の危機を救うべく、新興宗教に家族全員で属していた時期があります。

私にとっては宗教というより、関連する諸々の活動(お祭りで大はしごに昇ったり、山で同年代の人たちと集まったり)が楽しかったのですが、夫婦の危機を脱した両親が脱退することを決め、私も”勉強より活動を優先している”ということで、脱退の道連れとなりました(笑)。

しかしどこかで、宗教への興味というものを途絶えることなく持っていました。「本物の宗教とはどれだろう?すべてを結ぶものはないのかな」というのが私の幼少期からの最大の疑問でした。

そうして何十年もたち、ニューエイジからあれこれとはしごして今に至り・・・

宗教が本質的に”指差しているもの”、に気づきました。

一度それに気がついたら、すべてを”逆さ”に見ていたことに気がつきました。

そして、その原点から世界の主要な宗教が指し示そうとしたことを説明する、優れた記述にも多々出会い、新たな発見に深い感動を覚えました。最初にご紹介した聖書の一節も、その一つです。

・・・と、長い前置きと脱線の果てにようやく本文に達するはずのところですが・・・

長くなりすぎるので、本日はここまで。m(_ _)m

2015年5月2日土曜日

会えてよかった、ありがとう


無事アメリカに帰国しました。いやはや、日本は本当に素晴らしかった。

イシャヤのアセンションコースは、兵庫、東京共に参加者に恵まれて素晴らしいコースになりました。参加下さった皆さん、本当にありがとうございました。同じものを見つめる方達と出会うこと、一緒に時間を過ごせることは、この上ない贅沢だな、と実感しました。皆さんそれぞれの物語を聞かせて頂くこともでき、なんとも豊かな経験でした。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

それから、昨年トニー・パーソンズのリトリートで名前を聞いて、ブログを発見して以来ずっとファンであった、ヒロさんに会うことができました。お忙しい中時間を割いて下さって、本当にありがとうございましたm(_ _)m。感謝の念につきません。

最後に、日本の優秀な駅員さん達、お店の店員さん達、道を教えてくれた、見知らぬ親切なみなさん、このブログを読まれることはないでしょうけれど、心からお礼を申し上げます。おかげさまで浦島太郎は無事に、豊かな日本滞在を楽しむことができました。本当にありがとうございました。

今日は感謝とお礼まで、です。

2015年4月21日火曜日

日本上陸

空港に向かう途中で旦那さんが車をぶつけてくれたりして、一時はどうなるかと思いましたが、なんとか!日本に到着し、楽しく1週間が過ぎました。

7年ぶりの日本は、、、、すごい!
感動し通しです(^^)

便利さとか、美味しすぎる食事とか、色々すごいことはたくさんあるのですが、一番感動しているのは、人の優しさ。

道で行きあった人に何かを尋ねると、皆が皆、一生懸命調べて、確認してくれるんですね。人のことなのに、走って行って調べてくれたりまでして。日本に住んでいたときにもたくさん経験しましたが、こうやって久しぶりに触れると、本当に感謝感激です。

週末には、イシャヤのアセンションコースを兵庫で行い、そこでも素晴らしい人たちに出会うことができました。同じことを分かち合える人びとと時間を過ごすのは、この上ない贅沢だなぁ、と、心が溶ける思いがしました。参加して下さった皆さんに、心から感謝しています。

さて、車に乗ってても、飛行機で飛んでても、まったく違う土地に移動しても、やはりまったく変わらないのが、、、"それ"。この空間、この、そこいら中に満ちているもの。そちらに意識を向けると、あの、"私"が移動しているのではなく、変わらない空間を満たす内容物が変化しているのだ、という事実が圧倒的なものとして、その姿を現します。

その変わらない透明さの上にかかる、このほんの薄い物語のベールが、世界を作っているだけ。

オームのシンボルが、妙に頭に浮かんだりします。残念ながら、今日は挿絵ができないのですが、、、


2015年4月14日火曜日

それ?これ

私の体験や認識は、おかしなことに、深まれば深まるほどに神秘性を失って、"普通さ"を増していきます。今回も、ますますそんな感じで、特別とか、神秘とか思い込んできた事実の、あまりの当たり前さに改めて驚愕している感じです。

"それ"でも"これ"でもいいけれど、これはふつうに誰が見ても間違いなく、目の前に、いつでもそこいら中にあります。ただ私たちは、それを徹底して見過ごすように、訓練されています。

「ねぇねぇ、これってなんだと思う?」
「え?」
「ほら、この目の前にある、見えないもの、変くない?」
「そんなん、空気に決まってんじゃん、バカねぇ。」
「…その空気ってやつが入ってるところ、よくわかんないと思わない?」
「空間のこと?空間っていうのよ、くーかん!ホント、バッカじゃないの、この間の授業で聞いたじゃない。それよりサッサとしないと置いてくわよ。」
しぶしぶ…

「いやー、でも、物と物の間にある、この何もない空間っていうの、どうもナゾっすよね?」
「…お前、暇人か?さっさと営業行ってこいっ!クビにするぞっ!」

とかいった按配に。

だけど・・・・
そのただの、何も大事でないはずの空間は、どこまでも果てしなく広がっていて、、、、
世界中、宇宙中に存在するもの全てをあわせたより、はるかに大きくて、、、

それなくして存在できるものなど、何一つなくて。

そしてクルリと視点をひっくり返して、自分を最短距離ー距離ゼロから見てみると、それとまったく同じものしか見当たりません。

この、当たり前な事実のすごさ。

さて、、、見てみましょう。

"それ"につい て知るのは、語るのは、考えるのはもういいから、ただ単純に、まっすぐに、直接、自分で見てみましょう。

さぁ、ご一緒に(^^)。

2015年4月13日月曜日

7年ぶりの・・・

ついに明日、日本に出発です(^^)。7年ぶりの日本。。。。

コースにお申し込み下さった皆様、ありがとうございます。お会いできること、一緒に時間を過ごせることを心から楽しみにしています。

ではでは!

2015年4月12日日曜日

波の間に間に

すべての行為は”私”が行っている ― ”私”が物事を選び、決めているのだから、起きてくる事柄には”私”になんらかの責任がある、と信じて生きることの中には、とてつもない重圧が伴います。

小さな波が、海を、世界を、代表している、と信じ込むようなものです。


『ああ、大変。
太陽はもっと柔らかく照ってもらわないと困るのに、勝手にギンギラ照ってるし、鳥は勝手に飛んでくるし、風は勝手に吹くし、あっちではみんな勝手に波だっちゃってるし・・・
世の中こんなに大きくて、みんな勝手しちゃって、全部責任取りきれないわ(涙)。』

小さな波の間違いは、言うまでもなく(笑)、自分が海の一部であること、自分も風や諸々のからみ合いによって常に生まれては消えていっているのだ、ということを忘れていることにあります。

しかし、ここで・・・
『忘れてはいけないのだわ!私は海の一部なのよ。』
と、自分に言い聞かせることは、なんの役にも立ちません。

『私には責任ないんだわ。』
と、言い聞かせることも、一時しのぎの慰めにしかなりません。

『じゃあ、どうすればいいっていうのよ?!』

・・・正直、波にできることは、何もありません。

波に、波は消せないし。

『(涙)』

海であるっていう事実は、波がなにを信じていても、絶対に変わらないし。

『?!』


どうやっても、変えられないし。

『あら』


どこを見ても切れ目は見当たらない・・・


海は、波がなにを信じようとも、まったく気にしないし。
まったく影響されないし。


波が、”本当の自分”に返るとき ― 海としての自分に返っているときには、波としての自分という意識は、まったくありません。存在しえません。

でもまた風が吹くと・・・


にょき。

波は起こります。そして波としての自分の存在価値や、高さや低さ、昔に比べての変化なんかを考えたりして。

一度・・・あるいは何度も、海としての自分を深く認識しても、波立ったときには動揺しちゃったりします。

『こんなはずじゃなかったのに・・・』

すぐに海に返るときも、しばらくうねり続けるときもあります。

だけど、、、

主体的な経験がどんなものであっても、事実は変わりません。

波は起きては消える。起きては消える。

そして波は、海以外のなにものでもありえません。


だからちょっと、安心して、深呼吸して、くつろいで。。。。

2015年4月10日金曜日

余儀なき選択

choice-less choiceという言葉がくりかえし浮かぶ、今日このごろです。


選択の余地のない選択、選択肢のない選択。好む好まざるに関わらず、そうする以外にない、という表現です。

実際には、起きてくることはすべて、choiceless choiceですから、”あるがまま”の別の顔、といってもいいかも知れません。

”私”という蜃気楼が蜃気楼としてはっきり見えているとき。
”悟り”という蜃気楼の虚実が透けて見えているとき。

”私”と”私のすべきこと”、あるべき姿、取るべき行動、そういった条件付けに気づく間もなく縛られて、ハムスターのごとく回し車の上を必死に走っているとき。

そして、


”私が”、とか、見えている、見えてない、云々のすべてが完全に消えているとき。


それらのすべてが、種から芽が吹き出るように、花がある瞬間に開くように、雲があるとき太陽を覆うように、ただ、それ自体のペースで起きています。

気がつくと、すべてはすでに起きています。


気づいた瞬間に、体中から力が抜けます。

深く、深く、頭が下がる思いがします。

2015年4月6日月曜日

玉ねぎをむいたら: ジョーイ・ロット『これのこと』

ジョーイ・ロットは、

「前回から今回のビデオまで間が開いてしまったけど・・・悟った人だけがする特別な活動が色々忙しかったからなんだ。例えば・・・寝るとか、食べるとか、家族と時間を過ごすとか、書くとか、それとかうんこするとか・・・知りたいかもしれないから一応言っておくけど・・・ガハハハ!!」

と、いうような豪快さと、非常な繊細さを兼ね備えた人です。冒頭の言葉は、”悟った人だけがする、特別なことがある、なんて思ってると、目の前の大事なことを見失うよ”、というメッセージに続きます。

私はヒロさんのブログでジョーイのことを知り、彼のビデオや本を色々見てみました。

正直、最初の頃のビデオには興味が持てなかったのですが、Nothing in the Middleシリーズを見て、とても好感を抱きました。と言うか、彼の豪快な笑い声の気持ち良さと、澄んだ目が大好きになりました(昔の記事:隣のグルナマケモノ)。

ジョーイの魅力は、そのメッセージのシンプルさと普通さにあります。皆が探し求める”究極の幸せ”は今ここにあり、何一つ特別ではなく、それが故に限りなく豊かで自由である、ということを、どこまでも簡単な言葉で伝えようとします。

私の友人に、エクハルト・トーレ、トニー・パーソンズ、ガンガジ、アディヤシャンティ他、有名な人の本やビデオを色々試して、”難しくてわかんない”、と言い続けていた人がいるのですが、ジョーイのビデオを見て、彼の言ってることはわかりやすい、と喜んでいました。

Nothing in the Middle - 真ん中、中心には何も無い、という題名からは、有名な玉ねぎの例えを思い出します。

”玉ねぎを剥き続けると、最後には何も残らない” 玉ねぎの芯は空っぽである、というやつです。

ジョーイのメッセージは、探求にまつわる幻想の皮を、一枚、一枚、剥がしていくようなものです。
”どこかに隠された、特別な秘密の手法があるなんてウソだよ”
”本当の先生を見つけたら、真理にたどり着けるなんでウソだよ”

そして何よりも、
”探さないとみつからない、なんて大ウソなんだよ”

めくってごらん。ゆるんでごらん。どこを探しても、今、ここに、目の前にあるものだけがすべてなんだってことが、この瞬間にわかるよ。

ウソや幻想の皮をはがすと同時に、ジョーイは常に玉ねぎの”芯”を示し続けます。全部剥き終わるまで待つ必要はない、芯にあるものは、すべてに満ちている、ということを一貫して伝えます。

そういう意味で、『これのこと』というヒロさんの命名は、最適だなぁ、と思います。それだけが、彼の視線が向かうところだからです。それだけが、彼に見えているものだからです。

ヒロさんのブログで訳を読んで、その絶妙さに舌を巻いていたのですが(ジョーイが日本語をしゃべったら絶対こんな感じ!と思いました)、書き手の視線を捉えて、最も適切な訳をしてくれる人に出会えて、ジョーイもラッキーだな、と思います。

広く、たくさんの人に楽しんでもらえたらな、と、思う本です。自分の本では無いけれど(笑)。こんなメッセージが日本でどんな風に受け入れられるのか、楽しみに思います。

あえて一つだけ言うなら・・・個人的にはもっと大きなフォントが好きかな(笑)。単に私の老眼のせいです。

でもそうしたら、絶対最低でも2冊になったはずの本で、そこがヒロさんの気前の良さというか、読者思いなところというか・・・

大変お徳な本です(笑)。

*****

イシャヤのアセンション東京コース、まだ数席空きがありますので、瞑想に興味がありましたら、是非ともこちらからお問い合わせください。

2015年4月3日金曜日

ふと触れるもののすべてに

ようやく!臨時のアパートが決まりました。

これから7−9ヶ月、ここに落ち着くことになりました。たった3階なんですけど、丘の上に建っているので、すごく見晴らしがいいです。

たった3階なんですけど・・・今回の引っ越しはハードでしたっ!いやもう、平屋に暮らして、車で移動するだけの怠惰な暮らしに慣れきっていたので、荷物を抱えての階段の上がり下りは、日本帰国前のいいリハビリになっています。

****

今日は、ちっちゃなメモを。

私が長年行っている瞑想では、”賞賛(Praise)”というのが最初のテクニックの基本になっています。日本語でも英語でも、大仰な響きがする言葉ですが、実際のところはsimple appreciation、ただ単純に物事を味わう、ということです。

長い間、それは物事を褒める気持ちを持つことだと思い込んでいました。前向きに物事を捉える姿勢=感情を持たなくてはいけないと思って、そんな必要ないと言われても、どこかで前向きな感情を作り出し、盛り上げようと無用な努力をしたりしていました。

そうではなかったんだ、ということは、あるとき自然に示されました。

”ああ・・・”と思いました。

それから時間がたつうちに、日常の中で、意識がいつも触れるものすべてにハッとしていることに気がつきました。

最初は特定のもの・・・自然とか、きれいな景色とか、奇麗な人とかに反応しているのだと思っていたのですが、そうではなく、意識は目にするもの、耳に聞こえるもの、触れるものすべてに、いつも微妙にハッとしているのだ、ということに最近気がつきました。

いつも、すべてにハッとしている・・・
ときめいている、とか言うとちょっとまだ大げさですが、でも、静かに、微妙に・・・ときめくような感じかな。

意識には”お馴染みの物”など存在しないようです。
すべては常に新しく、新鮮で、ハッとするものなんです。

でもそこにはなんら、大げさな感情はありません。フワフワ、いつもハッピーで、なんていうことではありません。

ただ、静かに気づいてハッとして、そうやってすべてを、ただありのままにありがたんでいるのだと、気がつきました。

ジェニファー・マシューズの、すべてのものが「こんにちわ!」と語りかけている、という言葉を思い出しました。すべてのものが語りかけていて、意識はそれに応えている。同じものからできていながら、違う表現をしあっている、そのゲームを一緒に楽しんでいる・・・そんな感じでしょうか。

2015年3月28日土曜日

ミューーージック!!

荷物を倉庫に預けて、アパートでの生活が続いているのですが、すべての状況が1転2転3転・・・と、延々に転び続けていて、一体いつ、どこに収まるのか、収まるなんてことがあるのか、まったくわからない状態です。

倉庫にかかる費用やら、色々な情報は人によって言うことが違ってどれが本当かわからないので、計画は立てる先からやり直しになります(笑)。

かつての自分だったら、心配と不安とイライラで神経が焼き切れていただろうに、この混沌が”ただそのまんま”、ある種面白くすら映るのは、ある意味奇跡としか言いようがありません。

かつての私は、どうしようもなく安定を求めていました。
”私”がいると思ってたから、必死で”私”を守ろうとしていました。
そして動き続ける、言うことを聞いてくれたり、くれなかったりの気まぐれな現実に振り回され、現実を思い通りにしようとする戦いに疲れ果てていました。

今はすべてが、即興演奏のように見えます。色んな音があちこちで起きて、不協和音を含めた調和の音が奏でられている・・・。そのかけらとしての”自分”がある。そしてもちろん、すべての音の根源としての自分がある・・・。

ちなみに・・・

素敵な音楽を聞くと、伊坂幸太郎の『死神の精度』という本を思い出したりします。言葉のセンスがよくて、たまにちょっとおじさんなギャグもよくて、大好きな本なんですが、つい最近古本屋で見つけて、立ち読みを始めたら止まらなくなり、また買って読み直してしまいました。数年前に売った気がするから、自分の売った本をまた買い直したのかも・・・なんせアメリカの田舎町にたった一件の古本屋ですし(笑)。

ともあれ、本に出て来る死神達は、みな音楽をこよなく愛しています。音楽は、人間が作り出した最上のもの、と死神は言います。そしてどんな音楽でも、聞き始めるとすっかり虜になってしまうんです。

お店の視聴機で音楽の虜になっている死神の姿を想像すると、City of Angelsという映画の中の、浜辺にまばらに佇んでいた、コート姿の天使達のシーンが思い出されたりします。

思いもよらないところで音楽を耳にし、思わず「ミューーージック!!」と叫んでしまった死神に、なんともいえず・・・ほんわかした気持ちになり、顔も全身もほころんだりして。

死神に理解できない、人間の性質に関する洞察も面白いです。

人間以外から見た人間の洞察、という点では、コミュニティ時代の友人達の間で、『異星の客(Stranger in Strange Land)』という本が、スピリチュアル・ファンタジーの傑作とされてそれはそれは人気でした。翻訳を読んだのですが、今ではあまり細かいことは覚えていません。人間の行動を見ていた結果、火星人の彼は黄信号=スピート加速、と覚えた、とかいう話とか、女性達の身体は若返らせても顔は変えなかった、とかいう話以外は(笑)。

そうだ!今なら英語で読めるはず!―と勇んでkindleでサンプルを取り寄せてみましたが・・・私の英語力では太刀打ちできませんでした(涙)。読めるけど、細かいニュアンスを楽しむことができないし(涙)。

と、今日は音楽、読書、映画の話となりました(^^)。


2015年3月26日木曜日

強いエゴ、弱いエゴ

6年前にバーナデット・ロバーツのリトリートに参加した当時、私の中では悪者攻撃ブーム・エゴ編が真っ盛りでした。

当時の私は、エゴがなんであるのか、よくわかっているつもりでいました。でもエゴがなんなのかすっかりわからなくなった今、当時のことを振り返ってみると、エゴが何かわかっていたというより、エゴ=悪い、ということを信じて疑うことがなかった、というだけのような気がします。

・・・というのはさておいて。

とにかく、当時の私は自分がエゴの強い性格だ、ということ、エゴをどけようとしてもなかなかどけることができない、ということに苦しんでいました。

それをバーナデットに話したところ、
「エゴが強いのは何一つ悪いことじゃないのよ!しっかりした強いエゴがあってこそ、神を知る探求に向かうことができるのよ。真理を知るということは、やわな人間にできる仕事じゃないのよ!」

という、なんとも温かい、励まされる返事がありました。

彼女の表現の独特さ、語彙に関しては、色々意見が分かれるところかもしれませんが(^^)、当時の私にとっては非常な救いになりました。彼女自身が「私はエゴが強い(かった?)」と言ってはばからなかったこともありますし、何より言葉の根底にあった理解と優しさが、私を呪縛から解放してくれました。

バーナデットのエゴの定義で印象に残っているのは、What is Self?という著作の中の、”エゴとは、自分の思い通りに物事が進まない時におきる癇癪のエネルギー”だというものです。他にも様々な表現や説明をしていますが、(個人的に)これはわかりやすくて面白いと思いました。

A Passage Through Selfというビデオの中では、エゴの性質を以下のように説明しています。
”エゴは自分にとって最善のものを得るべく、全力で働く。だからこそ、神(真理)の探求に全力で向かう、ということが起こりえる。でも反対に、欲望を満たすことが自分にとって最善と思って、そのために下の下とも呼ぶべき行為に走ることもある。エゴには悪いことは何一つないが、その不安定さだけがやっかいである。”

ふむふむ。

エゴ、というのは他のすべてと同じく、実体のない概念です。良いもんでも悪もんでもありえません。また怠け者の私には、エゴという概念の定義を突き詰める根性もなければ、興味もありませんが、彼女のエゴを一切悪者にしないところは、聞いてて気持ちよく、とても好きです。

2015年3月20日金曜日

”私”に、ワクワク、ドキドキ

スピリチュアリティとか、非二元というアイデアにのめりこんでいたときには、色々なマイブームがありました。ヒーリンググッズとか、新しいメソッド・教師関連のマイブームもたくさんあったのですが、それ以上にヒットしたのは、悪者攻撃ブームでした(^^)。

エゴはいけないから、エゴをどけるべきだ。
執着はいけないから、執着をやめるべきだ。
欲しがるのはいけないから、欲しがるのをやめるべきだ。
嫉妬はいけないから・・・・

リストは延々に続きます。
今こうやって書いてみると、それらの一つ一つをどれだけ真剣に信じてもがいたかが思い出され、くすぐったくてたまりません(^^)。

「わぁ!これすべて、本気だったんだよな」って大きなスマイルマークを載せたくなります。

誰かが本にそう書いていたから、誰かが言ったから、「そうだ!そうしなくちゃいけないんだ!」ってすぐに信じていました。

頭が悪い、とか、洗脳されやすい性格だ、とか色々な考察はありますが、問題の原因は何かというと・・・”無邪気さ”です!(^^)!

マインドの無垢さがいけないんです!(笑)

「私ったら無邪気な性格だから〜」とか言うのとは違います。
性格ではなく、性格という表現をその背景でそっと支えているもの、可能にしているものが、本質的にどこまでも、どうしようもなく純粋だ、ということです。
そしてマインドは本来、”それ”と違うものではないからです。

マインドは無垢だからこそ、”空は青いんだよ”と言われればそれが空で、青だと覚え、”私があなたのお母さんよ”と言われたら、その”人”が、”お母さん”というものだと覚え・・・そうやって無邪気に、ゼロから、”社会”で機能することを習い覚えたわけです。そして良いとされることを覚え、悪いとされることを覚え、どうするべきかという人の言葉を信じ・・・

そこには意図は存在しません。純粋な機能があるだけです。



ちなみに、私の最後の悪者ブームは”私”でした。

トニー・パーソンズに会ってから、そしてその影響を受けた人たちの本を読んだり話を聞いたりしてから、”私”というものが最大の問題だったんだ、これさえなくなれば真の目覚めとか、究極の悟りに達することができるんだ、と本気で信じて長いこと”私”駆除を目指しました。

トニーは『”私”をどけたい、と思うのは”私”だけで、幻想の”私”に”私”がどけられるわけないんだよ。』と何度も言いましたが、それは聞いた先から頭の中をすり抜けて行きました。

「トリックに決まってる。きっとなんとかやり方があるはず。だから彼は今の状態に至ったに違いない。」

でもその傍らで、別の体験が起きていました。

前に何度か(も?)書きましたが、私は瞑想の教師になるためのコースに参加して、4−5ヶ月の間集中瞑想を行ったんですが、毎日昼も夜もなく、永遠に瞑想し続ける中で、だんだんと脳みそが溶けていき、それと一緒に、それまで頑なに守ってきた色々な”自分ルール”が、どんどん溶けていってしまってました(いくつかはコースの後ちゃんと帰ってきましたが ^^)。

曜日感覚も消え失せ、時間感覚もおぼろげな中、色々な思考や記憶がランダムに浮かんでは消えていきました。

そんな中で、”私”にワクワクしたり、ドキドキしたりした瞬間の記憶がいくつも意識に昇ってきました。

後年、すっかり悪者に仕立て上げられてしまった”私”ですが、子供の頃は、思考に集中することで自分の中にエネルギーが湧き、身体に反応がおきるのが、なんとも不思議で面白くてたまらなかったんですね。それでもっともっと、とやってみたり・・・

”私”のイメージを真剣に検証してみたり。
どんなイメージを作り上げるか真剣に書いて考えたり、練習したりして。

そんな瞬間の記憶の数々が、脈絡もなく意識に浮かび上がってきました。
”私”というのは、面白くて仕方ない遊び道具だったようです。

そんな記憶を眺める中で、事の発端はやはり”無邪気さ”だったんだ、というのが淡々とした事実として見えました。そうして私の中の悪者攻撃ブームはほぼ終わりを告げました(次に返ってこないとは限らないけど ― 今のところ、悪者攻撃は体力がいるので、すっかりぐうたらが身に付いた私には、かったるくてできないのです^^;)。

”私”は本当に便利で、愉快なものです。

2015年3月16日月曜日

動くもの、動かないもの


こんな感じがきれいだった所から、


こんな感じがきれいなところにやってきました。山に囲まれ、空が大きく感じます。


仮住まいのアパートに入り、ノックスにはもう帰る家がなくなって、数日は宙に浮いてるような感じがしました。

マインドは変化が苦手です。
慣れた状態から切り離されると、足下をすくわれた感じになって、なんとか自分の居場所を確かめようとあたふたします。

このマインドの習性、かなり面白いです。

なんとか着地しようとして、記憶から照合できそうなものを探しまくります。”あの時に似てる”、”これと同じかも”・・・あるいは状況を定義付けようとしたり・・・”今は仮住まいなのよね!”、等々・・・。

いや、落ち着こうとしなくていいんだってば(^^;)。今、落ち着かない状況なんだから。

そうしてマインドが宙に浮けば浮くほど、すべての底辺にある(っていうと場所があるみたいだけど)あの特定できない不動の静けさが鮮明になり、意識が避けようもなくそこへ向かいます。

住み慣れた家がなくなって、新しい土地に移って、家探しにあちこち出かけて・・・体が移動しているようでも、”自分”はまったく動いていない。

2015年3月11日水曜日

起きてみるまでわからない

家は一瞬で売れてしまったのですが、その後必要な検査や取引が短期間に圧縮される結果となり、売買の確定を前提に引っ越しの予定は入れざるを得なかったものの、本当に引っ越せるのかどうかわからない、という状態がしばし続きました。おとといの夜、ようやく売買契約が最終的に確定し、今日は引っ越し屋さんが梱包をしてくれて、明日は引っ越しです。段ボールの山に囲まれて、住み慣れた家最後の夜を過ごしています。

家は、おとといまではショールームちっくに奇麗に保たれていました。

昨日ちろちろと荷物が引き出され、ちょっと”引っ越しするぞ”という感じが出はじめ・・・

今日あっという間に荷物が梱包されてしまいました。

魔法のようです!

明日までインターネット契約を残しておいたのに、モデムが外されてしまったので、予定外にインターネットに継続できなくなってしまった・・・と思ったら、携帯でホットスポットというものができるし。

魔法のようです!

すごいなぁ、すごいなぁ、と、驚きやら感謝の念やらが浮かびます。

”どう?大丈夫?引っ越しのストレス感じてる?”
引っ越しが決まって以来、友達や知り合いが色々心配してくれたりしたのですが、自分の中を探ってみても、快適なリビングに座ってくつろいでいる、というのがその時その時点での現実で、まだ起きていないこと(引っ越し)に何かを感じる、というのはどうにも不可能な気がしました。

”どう?チャタヌガに行くの(来るの)楽しみ?”
この質問に関しても同様で、返事に困りました。”楽しみ・・・楽しみ?”まだノックスに住んでいるのが現状で、チャタヌガに住んだことないし・・・

バイロン・ケイティのインタビューが思い出されます。

”『〜することを楽しみますか?』なんで聞かれることがあるんだけど、私としては、どうやったら私にそんなことがわかるの?って。だって今やっていないんだから!実際にしてみるまで、楽しむか楽しまないかなんてわかりようがないわ。”


人が来て荷物を梱包してくれるというのも初めてだし、本来自分のものは自分で片付けたいほうなので、明日あたりはストレスフルな日になるのかなぁ、なんて昨夜お風呂に浸かりながら思ってたら、突然恍惚感がやってくるし。

ええっ こんな時にですかぁ・・・

なんだか妙に場違いな気がしたんですが、同時におなじみの”これは何かが起きるかも!”とか、”これはなんの意味があるんだろう?”といった宝探し思考が湧いて、ちょっとの間それにくっついて奔走し、はたとそれに気づいて笑ってしまいました。

経験はいつでも、人と場所を選ばすやってきます。

そしてそれは、起きてみるまで決してわかりません。

そして起きることには、”起きた”という以上の意味はありません。それが故に、起きることはすべて素晴らしい気がします。ストレスを感じる瞬間も含めて。

2015年3月9日月曜日

名前のちから

すべての物には名前があります。


すべての物は名前を与えられることで、社会の中にその”存在”を与えられます。名前を与えられることで存在が明確になります。新しいものが見つかると、大抵の場合、まずはそれをなんと名付けるか、ということが話題になります。

名前には大変なちからがあります。

おとぎ話ではよく、魔女が誰かを意のままに操るのに、相手の本当の名前を知ればいいだけ、なんて設定がありますが、まんざら的外れでもありません。

名前を与えられたものは、次に定義を与えられ、分類されます。名前を与えられると、輪郭が生まれます。”なんとなくそこにあるもの”ではなくなります。

これは個体(のように見えるもの)に限らず、感情や感覚も同じです。

感情や感覚は、生まれた先から消えていきます。もし邪魔をしなかったら、感情や感覚に気がつくときには、ほとんどそれは過ぎ去っています(これは実は、思考も同じです)。


でも、これに名前を付けると・・・


急に輪郭がはっきりして、”意味合い”が生まれます。
そしてもし、それが”いけない”とされるものだったり・・・”嫌い”というカテゴリーに属するものだと分類されたりすると、


”どけなきゃいけない!”、”やめなきゃいけない!”、などといった抵抗の盾が持ち出される結果、余計にそれが肥大化されたりします。


だけどどんなに怪獣化したように見える感情、感覚も、名前の呪文を唱えるのをやめると、瞬く間に本当の姿に戻ります。


生まれては消えて行く。気がついたときには、実はしっぽしか見えていない。残像しか見ていない。

”私”、も同じです。


(ちょっと絵が怖いかな・・・^^;)

2015年3月6日金曜日

優しい世界

雪の降った翌日。


お隣の屋根を見たら、この日の空の色は雪の色とおんなじで、空と屋根の境がわからない。

それが妙にくすぐったい気がしたりして。

そしてはたと気づく。

もしお隣さんが眺めたら、自分の家の屋根もきっとこんな風に見えるんだろうなぁ、って。

だけど自分の家の中から、自分の家の屋根は見えないから、私はお隣さんの家を通してしか、これを発見することはできない。

普段は近すぎるように思えるお隣さん。でもお隣さんの家がいなかったら、このくすぐったい光景に気づくことは無い。

お隣さんも私の家なくして、これに気づくことはない。

写真元:Veterinaria, Facebook page

フェイスブックで見かけた、目が覚めるように美しい鳥。

でもこの鳥は恐らく、自分がどんなに美しいか、一生知ることはない。

羽つくろいをするときに、羽の先端は見えても、自分の全身を見ることはできないから。

水に映った前身は見れても、後ろ姿は見れないから。

自分の全体としての美しさを知ることはない(鳥が気にかけることがあったとして、だけど)。

この美しさは他のもののために存在する。

それを見るもの、それに気づくもののために存在する。

”私の見かけは、私のためではなく、相手のために存在する”という、ダグラス・ハーディングの言葉を思い出す。

その理解が示す、世界の優しい造りに心が溶ける。

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