2016年6月28日火曜日

愛の出し惜しみ

アセンションの教師養成コースに、サポートとして何度か参加しているのですが・・・。

”サポート”なんて上品なこと考えて、いわば鍋のふちに腰かけていられた(いるつもりでいられた)のは一番最初の数日だけ。あっという間に鍋の中に落ち、一緒に煮られている、というのにすぐに気が付きました(^^)。

ここ数年触れることもなかった感覚や思考が再浮上して、”あらま!”と、久しぶりの再会にびっくりしたり。

家にいようが仕事場にいようが、養成コースの会場にいようが、そんなことは一切関係ありません。
すでにコースを経験していようが、リトリートに参加しただけであろうが、生徒であろうが教師であろうが、そんなことも一切関係ありません。

あの人の悲しみも、この人の怒りも、そこいらじゅうにまんべんなく流れます。誰かが経験してることで、私には関係ない、なんてことはありえません。

35人前後が一日中、集中的に祈り続ける、”自分”を燃やし続けるこの強烈な場にあって、傍観者の立ち位置を守るには、相当なエネルギー、もしくは無神経さ、あるいはまったくの無関心が必要となるでしょう。

ただすべてを、握っている手をそっと開いて解放し続ける。。。。
流れてくるものに、湧き上がってくるものに打たれるままになりながら、抵抗が暴れるままに、自分の中が割かれるような思いがするままに、痛いほどの感謝が湧くままに、すべてをただ、流していく。。。

自分のすべて、体、心、思考、感覚、直感、人生の物語、、、、すべてをあきらめる、あるいは、湧いては消えるままにする。

そんな過程です。

そしてそんな過程を7年前に経験した友達の物語を、今日はシェアしたいと思います。
なんでこの話なんだ?と、書いてる本人とても不思議ですが。

****

彼女は7年前、長年のボーイフレンドとともに教師養成コースに参加しました。
彼女たちの恋愛関係は、私が知っているだけでも山あり谷あり、という感じでしたが、その時点では、お互いの価値を深く認め、たがいに支え合っているように見えました。
私がリトリートに参加した週末には、彼は彼女への溢れるような愛情を、グループにシェアしていました。

しかし、私がそんな二人の様子をかい間見た、その数週間後。

彼はリトリートに参加してきた女性に心を奪われ、その女性へと走って行ってしまいました(って、どこかへ行ったわけじゃないんだけど^^)。

当然、彼女の心はズタボロに引き裂かれました。

結果から言うと、リトリート参加者の彼女と彼の縁は短く終わり、二人の関係は修復されたわけですが、私がこのことを知ったのは、4年後のことです。

”教師養成コースで一番辛かったことは何?”
と私が聞いたところ、
”彼が別の女性に走って行ってしまったこと。”

と彼女は答えました。

”裏切られたショックは深く、痛みはとてつもなかった。彼への怒りや恨みは相当なものだったけど、アセンションし続ける中で、胸のうちに愛があるのを認めないわけにいかなくなったの。それが流れるのを止めているのは自分だけ。このまま怒りに任せて心にフタをし、愛を止めておくのか、止めている手を離して、流れるのに任せるのか。。。結果的に、自分を明け渡して、流れるものを、流れるままにするしかないってわかったの。愛情が湧くことを許すしかない。どうしてもそうせざるを得なかった。それは彼の愛情を取り戻すためでもなんでもない、ただ愛するしかないってわかったの。”

それが、コースの中で彼女にとって一番大きな転換点だったといいます。

彼女が言っていたのは、個人的な、恋愛関係の愛情の話ではありません。すべてのものの根底にある愛情は、いつも流れ続けていること、愛は私たちが無茶な方法で止めない限り、自然に溢れているのだ、ということ。

そして”自分”の都合を捨て、物事のありのままの現実を知りたい、と望むのであれば、個人の損得に関係なく、愛が流れるのをどうすることもできない、ということを身を持って経験した、ということです。


関連して思い出していたのは、バイロン・ケイティの言葉です。
彼女は2度離婚を経験し、今は3度目の結婚生活を幸せに送っていますが、前の二人の旦那さんを今も心から愛している、といいます。

彼らのことを考えない、なんてことはありえない。しょっちゅう心、あるいは頭に浮かぶ。そして彼らが今もそうやって(頭の中のイメージや思考で)自分と一緒に暮らしていることに心から感謝している、楽しんでいる、と言っていました。

当時、前の旦那さんのことを思い浮かべるのは、今の旦那さんへのある種の裏切りのように感じていた(というより、思考をコントロールできると思っていた)私は、彼女の話を聞いて目からウロコが落ちる思いでした。
なんて美しい思考だろう、と本当に心が軽くなりました。


恋愛関係や愛情関係に損得を持ち込むのは、とても疲れる話です。
どちらがもっと愛しているか、どれくらい尽くしたか、尽くされたか、愛情の証拠は認められたか、、、、等々。

愛の会計簿の収支計算を続けるのは、相当げんなりする話ですが、私たちは愛において勝利感を味わうために、喜んでこの作業を続けます。あるいは、愛情が得られない、なくすかも、という恐怖のもとに。


愛が感情ではないことーあの思考によって盛り上がる興奮やふわふわした思いではないことーに気がつくと、愛の出し惜しみは不可能であることに気がつきます。

愛は条件を選びません。

前の旦那であろうが、裏切り者の彼であろうが、愛に値しない私であろうが、そのすべてを、あるがままに存在させる、果てしなく無条件な命の源泉です。

そしてその愛を知るのに、思い出すのに必要なことは、ただそれを見つめるだけでいい、
ということ。

あやまった思い込みも、条件付けも、なに一つ修正される必要はありません。
ただ手放すだけでいい。

手放せない、という思いも、なにもしないで見つめるだけでいい。

そのシンプルさに、優しさに、感謝を覚えます。
そしてその感謝も、即座に、それが命の源泉へ還るままに手放します。