2016年8月23日火曜日

まっすぐで、透明な(2)

その後特に彼女と会う機会はありませんでしたが、彼女は私の中で、どちらかと言うならそんなに会いたい人ではなく、カーリーが私のある経験を彼女のものと関連させた時も、”彼女と一緒にされたくなーい!”、というのが私の反応でした。養成コースで目撃した彼女の変化はすごいと思いましたが、彼女に苦手意識がありました。


それがまったく変わってしまったのは、私自身の教師養成コースの時です。


教師養成コースには、ほとんど毎日、いろんな人の出入りがあります。
リトリートに参加する人、お手伝いに来てくれる人などです。

最初の頃は人の出入りを楽しんでいたのですが、毎日昼夜を問わない瞑想を続けるうちに、だんだんと神経が研ぎ澄まされていき、人の騒音にやたら敏感になってきました。

目につく人が瞑想しているかしていないかー”それ”に心が向いている人と、頭の声に同一化している人の違いが、はっきりわかる。
”それ”に心が向いている人を見るとその美しさに吸い込まれ、頭の声に同一化している人のそばにいると、それが騒音のようにあたり中に響いているように感じられ、肉体的に”痛い”と言っていい感覚を感じる、と言った塩梅でした。


まぁ実際、私たち誰もが程度の差こそあれ、お互いの状態を常に自然に察知しているわけで、これは何も特別なことじゃないですよね。



さて、彼女が登場した瞬間、私はその静かで大きなフィールドにハッとしました。

まだちょっと残っていた苦手意識を押しどけて話しかけてみて、彼女のあけすけさ、あどけないと言ってもいいような可愛さにびっくりしました。かつて感じていた重さなど、見つけることができませんでした。


彼女は1ヶ月滞在して、料理を担当してくれたと記憶しています。私はキッチンの横のリビングで瞑想することが常だったので、キッチンからの物音、話し声は常に聞こえていました。彼女のほんわかした声が大好きでした(今でも思い出して、頭の中で聞くことができます ^^ )。

一度に35人分の料理を作るのは結構な重労働ですし、あると思っていた食材がなかったり、予定より料理に時間がかかったり、ということはままあります。
人によってはストレスでカリカリしたり、パニックを起こしたりします。そういった状況で急かされたり、強いトーンで質問されても、ただの一度も彼女の声にストレスの響きが混じることはなく、のんびりとした穏やかな対応は、一切変わることがありませんでした。


自分自身の養成コースを終えて、私たちのコースを訪れた人たちを見回すと、人によって静けさや騒音の程度・状態に変化があるのが見受けられましたが、彼女の安定度は見事で、料理の時のみならず、滞在中どんな物事にも影響される様子がありませんでした(彼を叱るときも・笑)。

コースを教える時は、何一つ派手なところがなく、ただ淡々と、正確に進めていっていました。


彼女に尊敬の念を抱かずにはおれなくなりました。


今思い返してちょっと笑えるんですけど、彼女は当時、”最近ただ生きるのが忙しくてアセンションしていないの。”と話してくれました。”一度に一つのことしかできないの。ここ3年はアセンションのことしか考えてなかった。でも今はお母さんの世話が忙しくて、それをただしながら生きてる。でも人生はすごく完全よ。”

彼女の言ったことがおかしかったわけじゃなくて、それを聞いてちょっと内心オロオロした、自分を思い出して笑ってしまいます(笑)。そもそもアセンションしてなくちゃいけない、何て思う方じゃないのに、まぁ、教師養成コースという、特殊な環境にあったからですね。



彼女が手伝いを終えて帰る前の晩のミーティングで、彼女に感謝を伝えるとともに、改めて彼女自身の経験を聞いてみました。彼女はいつもどおりあけすけに、オブラートに包むようなことも一切なく、自分の経験を話してくれました。それが”愛の出し惜しみ”に書いた話です。(彼は彼女の隣に座ってました ^^ )

彼女の言ったことを本当に理解できたのは数年後ですが、彼女が話していた時の空気、そのリアルさ、本物さに、身動きできない思いで聞いていました。


つづく