2016年1月24日日曜日

思考と、感覚と

トルコ系アメリカ会社が日本のコンサルタント会社を雇い、通訳が必要とのことで、唐突に工場通訳のお仕事が降ってきました。

ああ、そういえばLinkedInの自分の経歴をフリーランスの通訳にしてたんだっけ・・・忘れてた(^^;)

日系の会社に勤めていたことがあるのですが、日系会社では経営の鍵になるポジションには、たいてい日本からの出向・駐在社員がつきます。他の国の会社も同じだということが今回わかりました。国や文化は違っても、人々の力関係にまつわるやり取りはとてもよく似ていて、見ていて大変に面白いです(^^)。

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思考に自分がどれだけ頼っているか、ということに気づいている方は多いのではないかと思います。

私たちの誰もが頭の中にコンサルタント、マネージャー、現場監督、なんと呼んでもいいですが、指示者・指導者を持っていて、私たちは往々にしてその、”頭の中の声”に頼って物事を判断したり、決定したりします。

頭の声は時には自分を慰めてくれたりもします。
”大丈夫だよ”、”仕方ないじゃん”

昔あったことを思いださせてくれたりもします。
”あのときこうだったじゃん?”、”あいつ、前もこんなことしたじゃん”

褒め言葉、けなし言葉、なにかを定義する言葉、なにかに関する、すべてに関する意見ー

私たちはこの声に、とても重い信頼を置いています。


さて、スピリチュアリティに足を踏み入れると、この声、私たちの大切なご意見番は、極めて頻繁に・・・いきなり降格されます(^^)。


”思考はいけない、思考を止めなくてはならない”


ここでー
思考が降格されるとともに、唐突に昇格を受けるのが”感覚”です。

フィーリング、感じ、直感は、突然その価値が倍増され、思考に変わる新しい人生のリーダーとして持ち上げられます。

考えによって決めるのではなく、直感によって決めるべきだ。感覚に相談するべきだ。
感覚に敏感なのが優れていることとされます。


し・か・し、、、、


じっと観察してみると・・・感覚フィーバーから我に返ってみると、感覚も思考と同じくらいあてにならないことに気づきます。

が、この感覚のガイダンスへの依存は、思考への依存よりも深く、精妙なレベルに入り込んでいたりします。私たちは気づいているよりずっと、感覚に頼っています。


”これ、やるべきかな?”、”こっちに進むべきかな?”
という判断をする時に、自分の中の”感じ”を、無意識にチェックしてたりします。


一瞬頭の後ろや背中の後ろから沸き立つような、冷や汗をかくような感覚があれば、その緊急感に即座に反応して行動したりします。


あの状況、この状況、あの人、この人から逃げ出したいのは、彼らが何をするからではなく、何かが起きるのが嫌なのではなく、突き詰めると、”何かが起きたときに自分の体に起きる、特定の感覚を避けたいから”であったりします。


好きなことを、好きな人を追いかけるのは、好きなことをしている時、好きな人といる時に体に起きる、”特定の感覚が欲しいから”であったりします。




でも感覚も思考と同様に、”ただ起きているだけ”、であったりします。

”身体中に落ち着かない感じがする・・・ってことは、何かが起きる予感?”
なんて頭の中で意味合いがつけられても、

実際には何も起きないー起きたってことにしてもいいんだけど。



感覚と、それに伴う解釈を盲信しないで、起きるままにしてあげると、
意外な空間(自由)が生まれたりします。

ちょうど、思考を盲信するのをやめた時みたいに。



思考を”私化”するのをやめたときのように、感覚も自由にしてあげると、

すべては浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・


そんな自由さをいつもゆるしている、広々とした輪郭のない私ならぬ私が、不意にあらわになったりします。