2016年2月9日火曜日

イシャヤのアセンション

私のやっているイシャヤのアセンションという瞑想法では、アセンション・アチチュードと呼ばれる短いフレーズを使います。

目を開けているときでも、閉じているときでも、ふと意識が戻った拍子、ふと気がついた時に、ただそのフレーズを思い浮かべる。

そして、起きることを起きるままにする


ただ単純にすること、努力もいらない、思い入れもいらない、本当にただ単に思い浮かべること、というのが指南要綱です。

私はかれこれー途中ボイコットしていた時期を含めてー16年ほどやっていますが、続けるほどにシンプルになっていくのがとても不思議な体験です。

”ただ思い浮かべる”

というのは、つまるところ、”ただ生きる”、というのと同義です。

”ただ生きる”、というのは、”起きることを起きるままにする”、以外のなにものでもありません。

もちろん、

起きたことに気づくときには、ものごとはすべて起きている=終わっているわけですから、起きたことを起きたままにする以外、できることなどないのですが(^^)、私たちは、気づいた後に何かをすれば、その前に起きたことを変えられる、といった錯覚をしてたりします。


人間には、思考という贈り物があります。感情という贈り物があります。

それらは泡のように、浮かんでは消えるものですが、私たちにはそれらをつなぎ合わせて、ひとづつきの物語を想像する力が備わっています。


アセンション・アチチュードを思い浮かべるたびに、その鎖が切れ、物語が途切れます。


意識が物語に向かう事で、物語の継続がありますが、それが邪魔される事で、物語の崩壊が起きるわけです。


物語の崩壊が起きると、”ただ生きる”ことがこれまでどおり、ただシンプルに起きます。というか、自然に、ただ起きていることにかぶさっていた物語のベールが取れて、ただ起きていることだけが残ります。

ちょっとすると、また物語りのあぶくが浮かんできます。

気づいたら、またアチチュードを思い浮かべます。

ただ、起きることが起きているだけの、自然な状態があらわになります。


繰り返していると、ただ”生が起きている”状態へのなじみが、どんどん深まっていきます。

起きていることの評論家は、後から訓練して育て上げたもんだったよなぁ、

ということに気づいたりします。


そうすると、”あぶく”への愛着・執着は、ますます自然と消えていきます。

そして、この過程に一番不要なのが、”努力”であることにも気づきます。


日常生活の真っ只中で、ただ思い浮かべる。


目を閉じて休む時間を設けて、ゆったり横になったり座ったりして、意識がアチチュードと思考と気づきの間を行ったり来たりするのに任せる。


そんな生活を続けるうち、瞑想という修行ーあるいは私が悟るための手段から、それ自体がただ起きていること、生きていることの自然な一部へと変容しました。もちろん、時にはしっかり力んで、努力したりなんかもしながら。


気がつくと、なにか理由があるわけでもない喜び、なにかにもとづくわけではない感謝の気持ちが圧倒的に増えていました。

そして全ての行動を支配していた恐れが、自然と果てしなく減っていました。


この瞑想法に出会ったことに、感謝しています。