2016年1月20日水曜日

あの時にも、”それ”は


私という名の実験場で、さまざまなことを手にとって見る、ということが起きます。

私という名の実験場はありがたいことに、材料(私、私の感情、私の思考、私の経験)込みで常時使用可、しかも無料です(^^)。
好きな時に、好きなものを手にとって、したい放題に実験して見ることができます。使用制限はありません。

プログラムもありません。”自主性”が完全に、徹底的に重んじられています。

もっと言うと、”自然に起きること”、がすべてを支配している場所です。

昨夜の実験場では、”瞑想をしていない時には、”それ”はなくなっているのか?”
という課題が降って湧きました。

瞑想でも、修行でも、ヨガでも、呼吸法でも、マスターと一緒にいるときでも、コースを受けているときでも、”それ”に意識を向けている瞬間でも、スピリチュアリティのカテゴリーに入るもの、なんでも入れて結構です。

スピリチュアルにカテゴリーされてない、”私にとって最高の時間”も混ぜて結構です。

すべてであるもの、は、”私”がそこに意識を向けていない時には、それに触れる努力をしていない時には、なくなっているのか?あの至福感、特定の感覚がない時には、なくなっているのか?

”そんなことあるわけないさ〜、道理的に言って。”
はいはい、道理的に言わないで。

”論理的に考えて、ありえないよ。”
いえいえ、論理は置いておいて。

どうでしょう?私が瞑想するから、修行するから、悟った人と同じ場にいるから、”それ”が出てくるのでしょうか?
瞑想をやめたら、マントラを止めたら、マスターやヒーラーの元を離れたら、”それ”は消えるのでしょうか?

”いや、普通に考えたらー”
いや、普通に考えないで。


”それ”は、あったり、なかったりするのでしょうか?


あ、そこの私、ここは”図書館”じゃないから、そのマスターの本、ちょっと置いといて。実験室だから、ちゃんと自分で手にとってみないとダメよ。


***


さらに、今朝の実験室では、その課題はもっと広がって、かつ具体的・個人的になっていました。
”私の人生でもっとも辛かったあの経験、あの瞬間ー無意識に思い出すのを避けている、あの時にも、”それ”はあったのだろうか?”

瞬く間に起きた、最初の反応は"NO!"です。

いんや!あの時は至福なんてほど遠かった。絶対に”それ”なんてなかった。ありえなかった。

・・・そうだろうか?

いや、絶対になかった。


否定の声を否定しないまま、心の中の過去の映像にズームインする角度が、ヒョイ、と変わりました。

”私”の視点から”考える”と、絶対にありえなかったものが、つい、となにかが”私”の脇をすり抜けた瞬間に、静かな絶対性をもってそこにあったのが、疑いようのない事実として”見え”ます。

まったくなにもしゅちょうしない、
まったくじょうけんをもたない、
まったくなににもえいきょうされない、

限りなく透明なもの、は、なかった試しなどない。



”それ”の確認の手立てが、
”どうやったら手に入るか”ではなく、
”どうやっても無くせないもの、一番努力しないで、手に入っちゃってるものは何か?”

になったりしたのは、別の日の実験場。



答えはいつも新鮮であるのが、この実験場のすごさだったりもして。
わかったと思ってるものを、ことを、何度でも手にとって見ることができるのも、この実験場の味わい深いところ。

みなさんの、今日の実験場はいかが?