2016年1月5日火曜日

なによりも欲する、ということ


明けましておめでとうございます。
皆さんは良いお正月を過ごされましたか?
いつものように味気ないアメリカの正月ではありましたが、友人宅でカウントダウンなどして、ちょっとだけお正月っ!って感じで楽しかったです(^^)。

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マスターと弟子が旅の途中、川辺で休息していました。
どうしたら真理を知ることができるのか、と弟子がマスターに尋ねたところ、
マスターは彼の頭をつかんで川に押し込みました。
息ができず、あわや死に至るかと思った瞬間に、マスターは弟子の頭を水中から引き上げ言いました。
”今(この状況の元で)息をしたい、と思う以上に真理を求めるなら、真理を悟るだろう”

細部の違いはあっても、似た様な話を聞いたことのある方はたくさんおられると思います。

”なによりも欲しいと思う”
”ただこれだけを一心に求める”

といった姿勢が、情熱が、献身が、真理を知るには必要であるー。

これ、私にとって長いこと、周期的に湧いてくる”?”でした。
いい仕事が欲しい、いい収入が欲しい、白馬の王子様に出会いたい、美しくなりたい、いい人になりたい・・・

といったもろもろの、competing interest(あれもこれも欲する気持ち)を持たず、ただなによりも真理だけを純粋に求めることが必要なのだ。。。

「確かに、正しい気はする。でもあれこれ諦めたくないし。」
と、いうようなスタート地点から始まって(笑)

「えー、そんなこと言うけど、有名な誰それさんは(私の師カーリーもそうですが)お金も美貌も知性も名声も、全部持ってるじゃーん・・・」
なんてはしたない恨みがましい思いとともに、半信半疑、いじましい思いに満たされ。

「必ず悟れる保障あるならちょっとの間、他を置いといて試してもいいけど」
と、これまたはしたないネゴネゴ根性。

いい生徒であるために試してみたり、急に”最も本気な人”がなんだか格好いいように感じられて目指してみたり、

なんてウロウロしているうちに、いつか”本気”に、”興味”に乗っ取られていました(^^;)。

それでもそこには、”悟り”という神秘体験やステータスの見返り、
あるいはもっと微妙な無意識レベルでただ気持ちよさ、いい気分という代償を求めていたりしたわけですが、

乗っ取りは私の意志に関係なく進んで、やがて、本当に”ただ、”それだけが真の興味になっていました。

見返りを求めていた間には、迷いがいつもつきまとっていたので、
自分の尊敬する人が異口同音に”なによりも真理を求める気持ち”を提唱する(笑)のに出くわすと、不安が湧きました。

ほら、欲しいものを手に入れるのが真の目的だから、正しくやってないかどうか、十分にやっているかどうか=手に入るかどうか、心配になるわけですね(^^)。

で、そういう時点での私の機能基盤は”思考”および”感情”という動き、エネルギーだったので、なによりも求める=感情を盛り上げて燃料とする、と解釈し、行動していました。

当然、このように機能する場合、盛り上がりはしばし続いては振り子のように反対の極に揺れてクラッシュする、ということになります。そして、どこにも至ることもなく、スタート地点に迷い・惨めさとともに着地することになります。

さて、瞑想の教師養成コースに行って、私の最大の野望、”悟り”に永遠と意欲を燃やしていた時、なんと、そういう発言は絶対にしないように思われていたトニー・パーソンズの著書の中に、彼が同じことを言った(なによりも欲しがること)のを発見してしまったのです。

ええっ?という驚きと、でもトニーが言うんだから・・・うん、そうよね、やっぱりなによりもそれを、それだけを求める気持ちと集中が、最後の壁を突破するのに、究極の真理に至るのに必要なんだわ(はっっはっはっはっは!!!)

次に機会があった時、我が師カーリーにそれをすかさず、ちぼっと小出しにしてみました。確認と、もしこれが正しいのであれば、褒め言葉も受け取れるかもしれない、というチャンスだったわけですね(^^)。

カーリーはすかさず、ほぼ必死な感じで(^^;)、折あらばあさっての方向に走り出す、不出来な弟子の誤りを正してくれようとしました。

”彼が言っているのは、すぐにアセンション・アチチュード(瞑想のテクニック)を思い浮かべる、っていうことよ、欲しい、っていう感情の話ではないのよ。”

またまたまたぁ・・・すぐそうやってなんでもアセンションってことにするんだからぁ・・・

”思い込み”と”実際にただ行うこと”の違いがわからなかった私には、”欲しいという感情の話ではない”などと言われても、さっぱりわかりませんでした。

教師養成コースは、アセンションのコースですから、当然アチチュードを思い浮かべる、という表現になりますが、”真に求める”とは、”欲しい”という妄想を温めることではなく、ただ単純に、実際に、視点を”それ”=真なるものに向ける、ということなんだ、

と彼女は言っていたのだ、と真にわかったのは、それから丸2年経った今です(^^;!)

すべての思考・感情は動いています。
この動きは、不快とされる種類の物も含めて面白く、興味ぶかく、私たちの意識・注意を軽々と虜にします。

次から次へと、動きを追って移ろい続ける注意を、そっと、切り替えるー。

なんの努力もなしに、無理することなく、するっと。

ただ単純に意識を戻すこと、それが人工・人造のものでない純粋さそのものです(ってか、純粋さは起こせるものではないんだけど)。

”それ”について知ることにエネルギーを費やすのではなく、
”それ”について考えることに、思いをはせることにエネルギーを費やすのではなく、

ただ、意識が自由さにかえるのにまかせる。
折あるごとに、ありとあらゆる機会で。