2016年8月3日水曜日

インスピレーションの有効性




私のやっているイシャヤの瞑想のコースでは、

”私たちが言うことを信じる必要はないですよ”

ということをよく言います。ふ〜ん、そうなんか、と思ってくださっていいですが、私たちが言うことを鵜呑みにする必要はまったくないし、むしろしてはいけませんよ、と。

私たちは自分の経験を話しているだけ、皆さんはそれぞれの経験を持って、
自分にとってどうなのかを発見していくことなのだから、と。

同じことを私の師カーリーは、”情報は実際に瞑想をするための助けでしかない”、
という風に繰り返し言います。

教師養成コースの中では、さらに進んで、”インスピレーションはより(この場合は)アセンションするためのものでしかなく、各自がよりアセンションする結果になる限り有効であるけど、実際にアセンションすることに取って代わるものではないのよ”と強調します。

教師養成コースでは、ニサルガダッタ、ラマナ、ダグラス、アンソニー・デ・メロ、アディヤシャンティをはじめとし、様々な著書が用意されています。こういった素晴らしい人たちの本は、大きなインスピレーションをもたらします。

そして新しい発見、新たな気づき、さらなる打開があった時、私たちの心は高揚します。

新鮮さ、美しさ、豊かな創造性に触れた時、私たちの心は全開に開かれ、高揚します。至福を体験することも多々あります。

ただ、この高揚感は、”それ”そのものではないんですね。

”それ”に触れた時(思い出した時)の副作用(経験)と、”それ”そのものは、同じではない。

心が開かれたその一瞬には、真摯な目覚めがあります。しかしその一瞬あと、一瞬より素早く、マインドが”その経験”を捉え、解釈し、言葉に、形に、概念にします。その絶妙な機能は賞賛に値します。

一旦形になったもの、言葉あるいは概念、感覚でもいいんですが、捕えられた感触を、私たちは繰り返し味わい、眺め、それが”それ”だと思って温めます。

実際はどうかというと、”それ”は私たちが最悪の状況を経験している時も、最上の経験をしている時にも変わらない、まったく同じものなんですね。

でも経験や関連する感覚を”それ”だと思うと、その高揚感を追い続けることになる。

インスピレーションを堪能するのではなく、それを受けてすぐに視線を”それ”に移す。
インスピレーションをすぐに捨て去って、自分で見てみる、ということです・・・ので、抵抗あったりするんですね(^^)。ああ、こんな美味しいものを捨てるなんて〜〜

でも他人の言葉の中に、他人の経験の中に”それ”が見つかることは決してありません。
匂いはするけど(笑)。
その匂いを嗅ぎつけたら即、元を辿るのがかなめの部分なんですね。

インスピレーションはたとえどんなに美しくても、”動き”です。
高揚感、至福も”動き”です。来ては去っていきます。

それを超えて、それを豊かに存在させているものに目を向け続ける。
中身に関係なく、一切影響を受けることなく、普遍であり続けるものに目を向け続ける。

インスピレーションはその手前まで、私たちを運んでくれます。
最後の一歩は、私たちが自分でとります。