2015年4月12日日曜日

波の間に間に

すべての行為は”私”が行っている ― ”私”が物事を選び、決めているのだから、起きてくる事柄には”私”になんらかの責任がある、と信じて生きることの中には、とてつもない重圧が伴います。

小さな波が、海を、世界を、代表している、と信じ込むようなものです。


『ああ、大変。
太陽はもっと柔らかく照ってもらわないと困るのに、勝手にギンギラ照ってるし、鳥は勝手に飛んでくるし、風は勝手に吹くし、あっちではみんな勝手に波だっちゃってるし・・・
世の中こんなに大きくて、みんな勝手しちゃって、全部責任取りきれないわ(涙)。』

小さな波の間違いは、言うまでもなく(笑)、自分が海の一部であること、自分も風や諸々のからみ合いによって常に生まれては消えていっているのだ、ということを忘れていることにあります。

しかし、ここで・・・
『忘れてはいけないのだわ!私は海の一部なのよ。』
と、自分に言い聞かせることは、なんの役にも立ちません。

『私には責任ないんだわ。』
と、言い聞かせることも、一時しのぎの慰めにしかなりません。

『じゃあ、どうすればいいっていうのよ?!』

・・・正直、波にできることは、何もありません。

波に、波は消せないし。

『(涙)』

海であるっていう事実は、波がなにを信じていても、絶対に変わらないし。

『?!』


どうやっても、変えられないし。

『あら』


どこを見ても切れ目は見当たらない・・・


海は、波がなにを信じようとも、まったく気にしないし。
まったく影響されないし。


波が、”本当の自分”に返るとき ― 海としての自分に返っているときには、波としての自分という意識は、まったくありません。存在しえません。

でもまた風が吹くと・・・


にょき。

波は起こります。そして波としての自分の存在価値や、高さや低さ、昔に比べての変化なんかを考えたりして。

一度・・・あるいは何度も、海としての自分を深く認識しても、波立ったときには動揺しちゃったりします。

『こんなはずじゃなかったのに・・・』

すぐに海に返るときも、しばらくうねり続けるときもあります。

だけど、、、

主体的な経験がどんなものであっても、事実は変わりません。

波は起きては消える。起きては消える。

そして波は、海以外のなにものでもありえません。


だからちょっと、安心して、深呼吸して、くつろいで。。。。