2015年9月20日日曜日

虹の始まりもしくは終わり

虹が高速の路肩に降りているのを見ました。
よもや虹の端っこを目撃しようとは・・・感動。

https://www.youtube.com/watch?v=_7cN8TLY8sk

これはもちろん、自分で撮った写真ではありません(^^;)。
私が見た虹の端っこは路肩の草の上に降りていました(から始まっていた、でもいいんですが・・・)。
そしてもちろん、写真を撮る暇などなく、通り過ぎてしまいました。

でもしっかり見れただけらっきー。

親しい人に聞くと、彼は子供の頃、庭に虹が降りているのを見たことがあるそうです。

当然、虹の根元を見定めに行ったわけですが、近寄ると・・・逃げる。
あれ?と振り返ると、今度は後ろに。

プリズムだから、追っても追っても、捕まえることはできない。

私たちの心の幻想とまったく一緒(^^)。

*****

その心の幻想について、最近深く腑に落ちたことが二つ。

一つは・・・気がついて笑っちゃったんですが、

”自由になりたい”といいながら、どれだけ心の幻想の中にある、ある特定の型=結果を追い求めていたか、ということ。

例えば瞑想でも、悟りでも、なんでもいいんですけど、

もし”わかったら、到達したなら、正しくやったら、こうなる”という特定の型があるならば、

それはもう、まったく自由ではないんですね。

だって、新しい型=定義にはまることが目標になっているんだから。

これは自由どころか、苦しみの元でしかない。

静けさの経験の後にちょっとマインドが賑やかさを取り戻したら”なんで?!”と苦しむ、
無や至福の経験の後に怒りや嫉妬が沸いたら、悟りを失った、と苦しむ、

なんて混乱は、そういう誤解からきているんだけど、それがわからなくて、それに気づかなくて。

”どんなことでも起こり得るから自由なんだ”

という当たり前のことが唐突に腑に落ちたときには、それこそ深い開放感と安堵感がありました。


もう一つは、その心の幻想の深さ。


expectation、期待、心に抱いている幻想に基づいて、私たちは幸せやら不幸やら、アップ・ダウン、感謝から恨みまで、様々な、色とりどりな感情を経験します。

心に抱いているイメージに叶ったものは喜び、興奮、ラッキー感等々として解釈されますし、

イメージに反するものは不満、怒り、失望等々として解釈・経験されます。

・・・イメージおよび期待するものがなかったら、起きることは起きることでしかないんですが、

この条件付けは非常に深い。思っていたより、気付いていたより。




ああ、そっかぁ。。。。




そんな気づきも、あっという間に消えていく。


新しく定義できるものなど、なにひとつないまんま、


身の回りに秋の気配がただよいはじめています(^^)。