2014年8月28日木曜日

ナマケモノ

ジョーイ・ロットのメッセージで共鳴したことの一つに、”抵抗しないこと”というのがあります。

なにも新しいことではありません。surrender, non-resistance, let go...精神世界では繰り返し使われてきた言葉・概念です。ただ、言葉は同じでも、それを発する人によって、また自分が受け取るタイミングによって、伝わる内容がやや(だいぶ?)違う気がします。

私がはじめにsurrender、自分を明け渡す、という概念や教えに出会ったときは、”行うべき努力の方向”として受け取りました。”私”に与えられた新たな進むべき方向、前向きに取り組むべき課題、達成すべきゴール・・・あるいは悟りにいたるための条件。

力を抜こうとする状態から、いつしか力が抜けていく状態に変わっていったとき、抵抗しないということの意味が変わりました。
・抵抗しない、というのは、いつでも穏やかで平安という意味ではない。
・抵抗しない、というのは、努力で起きる(または起こせる)ことではない。

あるときから、嫌なこと、嫌いな感情が起きて全身に不快感を感じているときが、最高の実験のチャンスであると気づきました。嫌い、という想いを変えようとせずに、そのまんまでいたらどうなるんだろう?それが癖になってしばらくたってからジョーイに出会いましたが、ジョーイはそれを、”ただナマケモノになるんだ”と表現していました。言葉の裏から、彼が極限まで疲れ果て、もはや抵抗することも努力することも完全に不可能であったときの、その脱力感の経験が伝わるような気がして、さらに抵抗する習慣が緩まり続けました。

この一年、繰り返し繰り返し気づくのは、”私”がいかに落ち着かない存在であるか、ということです。”私”は行動することを求めます。”私”は何かをしてないと、存在を感じられません。”私”は、怠け者であることはとても悪いことだと教わって育ちました。”私”は、油断するとすぐに何かをしようとします。この”私”に、静けさを達成することは不可能です。”私”というのは”動”そのものだからです。

つんのめりに生きるていることに気づくだけ。それだけで、はっと力が抜けました。そしてまたつんのめりになって、またはっと気づく。繰り返しの中で、だんだんと緩んだ状態が長引いて、この自然な状態を取り戻していきます。もっと気づこう、とするのは無用。気づくというのは自然に起きることで、起こせることではないからです。

そうしてどんどんナマケモノな生き方が当たり前になったら、生き方というより、存在の仕方が変わってしまったような気がするのですが、こればかりはどうにも表現不可能です。

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