2014年11月5日水曜日

心象風景が消えるとき

バーナデット・ロバーツの『無我の体験』を日本語訳で楽しいんでいるところです。

心象風景―心に浮かぶイメージ、音、物語―といったものが消えるとき、そこに残るのは何か。バーナデットの旅の過程を読む中で、今私が一番内観を誘われている問いです。

”心象風景を一切合財失ったとき、そこからくるエネルギーに自分がどれだけ頼っていたかに気がついた”、と彼女は言います。

私は自分の頭の中で、終止独り言が続いているのに気がつきます。それは時には記憶の画像であったり、想像の物語だったり、自分や人の行動、発言に関する意見、憶測、批判、叱咤激励だったりします。

そして私は日常的に、この頭の中の声を使って、自分で自分を駆り立てているのに気がつきます。それが自分の行動の原動力、創造力の源だとすら思っているのに気がつきます。頭の声を信じることで自家発電される、ある種の”盛り上がり”とか”焦燥感”をなくしては、何もできなくなってしまうのではないか、とまで思ったりします。

一方で、頭の中のどんな声や意見を信じることなく、物語に巻き込まれることなく眺めていると、面白いことがおきます。

まず、ふと、考えていることに気がついて、頭の声と”それを聞いているもの”の間に亀裂が起き、ピタッと物語がやみます(大抵の場合、物語は消えます)。

『だるまさんが転んだ』現象、とでもいいましょうか。後ろから聞こえる「だ〜る〜ま〜さんが〜こ〜ろ〜んだ〜」という声を聞きながら前に進んでいて、あるとき急にピタっと止まり、振り返る。すると後ろの声もやみ、ついてきていた人たちは静止する。

そこでまた前に向き直り歩き始めれば、新たな物語が続行しますが、振り返ったままさらに”眺め続ける”と、頭の中にちょっとした騒ぎがおきます。頭の声が次から次へと別のトピックを投げてくるんです。もしこの話題に食らいついてこないなら、このゴシップはどうだ、あの映画の思い出はどうだ、という感じで、どれにも乗らないと、果てはまったく関係ない歌まで頭に流れてきます(笑)。

どれにも参加せず、さらに静観していると、”何も起きてない状態”になります。今の私の限られた経験と能力で描写すると・・・目が開いているにも関わらず、何かを見ている感覚もなく、なんとも変な感じです。麻痺しているのと違うように思いますが、何もはっきりしたことは言えません。

そして”それに耐えられない”、とでも言わんばかりに、わさわさした感覚が身体の中に湧きます。なんでもいいからこの静寂を破ろうとするエネルギー、といった感じです。

心象風景こそ、”私”そのもので、”私”が継続するには、常にエネルギーが注がれていなくてはならないこと、また”私”は自分が消滅することに、徹底的にあらがうのだ、ということが見えます。その抵抗ぶりとバラエティに富んだ技は結構笑えます。