2014年11月3日月曜日

瞑想という快適な時間

昨年、瞑想の教師養成コースで集中的な瞑想を行った、ということについては何度か書きましたが、そのとき私が経験した最大のチャレンジの一つは、”瞑想から起きること”でした。

私が行っている瞑想は目を閉じていても、目を開けていても行うことができます。両方が大切であることは、常に言われることですが、通常の生活を離れての集中瞑想、という稀な機会では、目を閉じての瞑想の重要性がはじめは強調されます。

やがてある地点から、目を開けて食事をしている、散歩をしている、人と話している、掃除しているときに瞑想することの重要性がもっと強調されるようになり、それはそのまま瞑想の指導をすることへ延長されます。

6ヶ月というのは長いようで短い期間です。この期間に学ぶのは、一なるものについて少なくともはっきりとした感覚を得ること、習慣的な、反応的な生き方と、自然な状態に沿った生き方の違いをはっきり味わうこと。さらに、トレーニング後の通常の生活で、自然な状態への認識が広がって行くよう、瞑想の習慣を確立すること、です。瞑想の指導の仕方、というのは、ある意味二の次です。

多くの人は、目を閉じて日に10時間以上も瞑想し続ける、ということに難しさを感じます。それまでの、常に何かをして気を紛らわす習慣を止めるのは、大変なチャレンジなのです。人と話したい、電話したい、パソコンに向かいたい、本を読みたい、美味しいお茶を入れたい・・・内観が起こす嵐、静寂、または退屈を避けるためならなんでもします。

私にとっては、目を閉じて外界を遮断し、次第に精妙になっていく様々な意識のレベルを模索するのは、これ以上ない喜びでした。ですから退屈や苦痛を感じるどころか、ある時点を過ぎたときには、このまま永遠に横になって瞑想を続けていたい、と願うくらいでした。自分は僧院にいて、一生祈って暮らしていく、というような錯覚にどこかで陥ってしまったほどです。

過去のマスター達が語ったように、存在への深い理解が確立され、自然と瞑想が止むまで突き詰めたい、というスピリチュアル・ロマンスへの執着もありました。

私の師カーリー、そしてバガヴァティは当然、それを見逃しませんでした。そして私を含む数名が、目を閉じての瞑想で学ぶべきことは終了したとして、目を開けての瞑想に重きを置くべく、次のプログラムに移されました。

瞑想という快適な寝床に安住していた私にとって、これは非常な苦痛でした。

私の実践している瞑想法は、条件づけられた思考をゆるめるのにとても効果的だと思いますが、どんなものであれ、それが逃げの場所になってしまえば意味ありません。瞑想の時間が日常より優れた特別な時間、とかになってしまえば、生活や思考を分断するだけで、存在の一なる本質を知ることとは真逆に走ることになります。


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