2014年11月18日火曜日

真理の場所

マインドは見聞きしたものを、時間と空間の中で特定しようとします。私は自分の中で、真理というのをどこかにある、特定のスポットのようにイメージしていたのに気がつきました。


これは無意識に持っていたイメージです。”真理に目覚め、そこに定着する”なんていう言葉を聞くことによって、ある特定のスポットが空間にあり、それを見つけ、そこへたどり着き、その上に定着する、というような、こんなイメージ(↓)がマインドに形成されていたわけです。

実際にその上に座っているのかどうかというのは別にして(笑)、定着する、という概念からは、定着してない時という幻想が生まれます。このイメージとともに、スポットからこぼれ落ちた(=目覚めたと思たのに、あの感覚がなくなっちゃったわ)、片足だけ引っかかってる(=かすかにわかるような気がするけど・・・)、指先でかすかに触っているような(=そこにあるのはわかってるけど)、といったような、諸々の目覚めに関する架空の体験が生み出されました。

言うまでもなく最初の誤りは、真理を”どこかにあるもの”と捉え、果てはその場所にたどり着いた(=真理を見つけた)、と思うことなんですが・・・

マインドは自分の立ち位置をはっきりさせるのを好みます。時間と空間の中での位置づけを行うと同時に、意味合いも定義しようとします。
「自分なんて存在しない」
「すべては一つだ」
あるいは「マインドなんて存在しない」などといったような洞察、気づきが起きると、それを”真理の定義”として握っておこうとします。この二つが合わさると、真理に辿りついて定着するというのは、こんなイメージですか(↓)

私はこれを、何度も何度も繰り返しました。そのたび運良く、誰かに、あるいは何かの出来事にうまいこと頭を叩かれぺしゃんこになって、握っていたものを手放す結果になりました。本当にありがたいことです。そしてこの作業は今も続いています。

どこか架空の場所、あるいは状態にとどまろうとすること、一つの気づきを普遍のものとして持ち歩くこと、どちらも不可能なことなので、無意味なもがきを生みます。限定され、箱に入れられた真実は、すぐに湿気を帯びて古くカビ臭くなります。でも握れるものがあるほうが、嘘くさくても、つかの間は安心な気がしました。

すべてはわかりたい、という”私”の中に深く根付いた、どうしようもない衝動からきています。わかれば、それを管理、コントロールできると思うからです。そしてコントロールできれば・・・結局、”安心したい”という願望に返って行きます。

あきらめて手放すと、すべてがただ流れて行きます。なにも捕まえることができないのは不安ですが、不安感もふと目を向ける間に流れていきます。何もかもがどうしようもなく変化し続けています。