2014年11月9日日曜日

正しい問い

『正しい問いを持たなくてはならない』と、アジャシャンティ、U.G.クリシュナムルティはじめ、多くの人が言うのを聞きました。

ある人は、それはbig questionでなくてはならない、と言いました。例えば、
”神とは何か”
”生きるとはどういうことか”
といったような問いです。当然試してみました。最初こそ、この”大きな問い”に対する盛り上がりを感じたものの、注意はすぐにそれていってしまいました。

また別のところで、
”私は誰か”
という問いこそ、究極の問いなのだ、というのを聞きました。さっそくこれも試しましたが、問いは次から次へと思考を生むだけで、やはりなんの役にも立ちませんでした。

”考えること”が意識の焦点のほとんどを占めていた間は、正直、どんな質問もマインドの表面にとどまるだけで、なんの意味もなかったように思います。

初めて自分の中で、本当の”問いかけ”というものが起きたのは、アジャシャンティの『あなたの世界の終わり』を読んだ時だったと思います。
瞑想だなんだ、あれこれやってきたけれど、一体なんのためにやってきたんだろう?今、なんのためにやっているんだろう?

本当に自分の深いところから沸き上がるものがあるからやっているんだろうか?それとも、そうしたら何かいいことがあるらしいから、何かいい思いができるかも知れないから、人にそう聞いたからやっているんだろうか。

この問いは人からの”借り物”ではなく、自分にとって本物だったので、最初は少々努力を要しましたが、その問いとともにじっと座ること、深く沈んで行くことができました。初めて黙想することを学びました。

その後、
”私、私、って思ってるけど、一体私ってなんなんだろう?”(誰、ではなくて”何か?”です。)
”私が本当に欲しいのは何だろう?”

というような問いをはじめ、”あの人はこうするべきじゃない、と私は思ってるけど、本当だろうか?”といった具合に、一つ一つの思い込みや、自分がこれまで現実と思って来たこと、ただ自動的に信じてきたことを問い直す、ということがより頻繁に起きるようになりました。

こういった問い、黙想は、よく”思考を超えた経験”を起こしました。頭の中で答えを得るのではなく、むしろ問いとともに、問いを含めた思考が消えて行き、ただ在る状態を体感することで、思考がただのエネルギーであること、それまで信じてきた事柄が、実体のないものだったことが自ずとわかる、という感じでした。

そして今、繰り返し検証している、というか、眺めてみているのは、
”私は何を変えようとしているのだろう?”ということです。

あれやこれやを探し、試すその根底には、”今あることの何かがおかしい”とか、”何かが欠けている”、”これはこうあるべきじゃない”、という感覚があるのが見えます。世の中の、私の、何かが違う、間違っている、という思いが根底にあります。

本当に?これはこれではいけないの?今起きていることは、起きているままではいけないの?

子供の頃から、”現状に満足したら人間は終わりなのよ。それ以上の成長がなくなるの。”などと言われて育ちました。何か足りないものを見つけ、どうやったら目の前のものをよくできるか、ということを常に考えることが、人間の向上の道なのだ、と教わりました(当然これは、人間は向上しなくてはいけない、という考えを前提にしています)。

人間は破壊に向かう道を進んでいるから、精神を高めないといけない、とも教わりました。世の中には、目に見えないもっと大きなものがある、とも聞きました。

本当にそうだろうか?

そこには成長すべき誰もいない、向上というのは概念だ、等々というのは置いといて、ただまっすぐ、本当なのか、眺めています。

じっと見つめると、問いが沈黙の中に消えて行きます。身体がゆるむのに気がつきます。深呼吸が自然に起きるのに気づきます。
そしてまた思考がわき、思考がわくのはいけないことだ、という思考がわき、本当にそうかな?という問いがわきます。

答えがないままに、心身がゆるみ続け、私のものではない、深い沈黙だけがそこに在るすべてになります。