2014年11月28日金曜日

知っている、わかっている、私は正しい―”私”の幻想が崩れるとき

私はかつて、自分は色々なことを知っている、と思っていました。知識の収集に力を入れていましたし、自分の知識は”正しい”と思っていました。自分の直感力も、相当なもんだ、と思っていました(笑)。

この”私は知っている”、という思いこみと自信のもとに、見かけた人や出会った人を印象で判断したり、他人の考えているであろうことや、その人のするべきことまで、自分の方が本人よりよく知っていると思っていたんですから、怖いものです。

”あの人はこういう性格に違いない”
”あの人は腹の中でこう思ってるに違いない”
”あの人のやっていることは間違ってる、こうすべきだ” 等々・・・

その結果、たくさんの苦しみを生みました。自分の意見を守るためなら、自分が正しい、ということを押し通すためなら、人との諍いも厭わなかったからです。”愛を取るか、自分が正しくあることを選ぶか”(Do you want to be right or do you want love?)、という言い回しを、私の身の回りの人たちはよく使っていましたが、私は当然、正しくあるためなら、愛などかなぐり捨てる、という方でした。

やがてバイロン・ケイティに出会って、自分の中の思い込みを再検証してみる、ということを学びました。バイロン・ケイティは自分の思い込みに対して、4つの問いを投げかけることを提唱します。

1) それは本当ですか。
2) それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。
3) その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。
4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。
*参照 http://www.thework.com/downloads/little_book/Japanese_LB.pdf
*英語    http://thework.com/thework-4questions.php

この問いは頭で処理して「本当に決まってるじゃん!」と終わることもできますし、問いと共にどこまでも深く沈んで行くこともできます。また「本当ではない」というのが正しい答え、ということでもありません。

最初は自分が間違っているかも、と考えることすら言語道断、という感じがしましたが、4つの問いと、それに続く”ひっくり返し”をやるうちに、やがて反対側の真実を見る目ができて、はっとしました。一度この、はっとする経験をすると、他の思い込みもばらばらと崩れ始め、再検証は楽になりました。

私にとって私の信じていることが絶対に本当のことと思えるように、他の人にはその人の信じていることが絶対の真実である。だから真実は、人の数だけ存在し得る―そんな単純な事実に心が開かれました。

自分がいかに素早く物事すべてを決めつけるか、ということに気づくとともに、自分が間違っていることに気づくたび、それを嬉しくすら感じるようになりました。

そうするとさらに、自分の思考を疑うのは楽になります。そうやって物事のペースを落としてみて見ると、これまで自動的に白黒判断していたことが、実はグレーであったり、果てはピンクだったりすることに気づいて、本当に驚きました。

スローダウンして見ると、自分が物事をいかにちゃんと見ていないか、聞いていないか、ということにどんどん、どんどん気づきます。やがてその、自分の頭の悪さをシンプルな機能的欠陥として自覚するようになり、何かを見て腹がたったりしたときにも、怒りの思考を信じてより怒りだす代わりに、待てよ、と、すぐに同じ物を見直す癖ができました。

そして自分を盲信すること、物事を誰かのせいと信じるのが難しくなりました。正しくあることも大事ではないというか、今はそれより、この検証の機会を逃すまい、という興味が先にきます。相手に腹が立つとき、”自分の中の何を相手に見ているんだろう?”とすぐに問いがこちらに向きます。相手に関しての批評は、自分の中の自分への批評、思い込みでしかないことが、自分の中で真に事実として自覚されたからです。

ちょっとの間の痛み、プライドの傷やエゴの痛みなんか、物事のありのままを知る自由に比べたら屁でもありません。

自分の信念、思い込みを疑ってみることは、私にとっては本当に価値がありました。そしてもちろん、これは今も続いています。