2014年11月12日水曜日

あたりまえへの帰還

見つめれば見つめるほど、私に見えて来るのは超常現象も神秘的な何かでもなく、ものすごく自然で、あたりまえな物事のあり方です。

”すべてのことが、それ自体の完璧なタイミングで起きている”

例えば、私たちの身体は、赤児の身体から幼児の体、大人の体へと、自体のペースで育っていきます。そこに私たちの意志などまったく関係ありません。常に、それ自体に備わっている知性に基づいて機能しています。

呼吸、心臓の脈拍、消化、爪や髪の毛の成長、細胞の生まれ変わり、ゲップからお腹がきゅーっと鳴ることまで。

行動も思考も同じです。すべてを自分の意志で決め、行っていると教わり、そう信じてきましたが、行動や思考は”起きて”、自分はそれにその後気づいているに過ぎません。

すべてが、一秒たりとも早めに起きることはありません。一秒たりとも遅すぎることもありません。

この当たり前のことに気づいて、言葉にできない感慨に打たれてはまた忘れ、同じことを再発見します。その事実をさらに深く体感します。

理解も、気づきも、それ自体のタイミングで起こります。例外はありません。私の努力や希望とは、一切関係ありません。努力も希望も、それ自体のタイミングで起きています。努力しないようにしようとしても、希望を持たないようにしようとしても、するときはする、持つ時はもう持っています。

運命論や、思考のレベルで物事は起こるべくして起こる、と定義するのとは違い、投げやりな気持ちは一切起きません。大いなる自然の動きに対する畏敬の念に包まれ、力がすべて抜けるような気がします。起きることに対する抵抗感が薄れ、静かな信頼とともに、次の行動に流れて行きます。

そして”私”が、”これを絶対忘れないようにしよう!”、と言います。それを新しい信念体系にしようとします。その時には、すでに気づきは役目を終え、死んだものとなっている。どんなに素晴らしくても、体験にしがみつき、それを絶対化して生きることはできません。