2014年10月6日月曜日

私とイシャヤのアセンション

私はここ15年間の探求を、イシャヤのアセンションと呼ばれる瞑想法とともに歩んできました。

イシャヤのアセンションは、私にとってとても不思議なものです。他のすべてのものと違い、私が追い求めた、というより、偶然や事故の連続でどんどん深く入って行ったような感じがあります(笑)。そのためにアメリカまでやってきました。

この15年の間には、『これは素晴らしい、世の中の人すべてが学ぶべきだ!』、『なによ、なんの効果もないじゃない』、『どうしてこんなことやってんのかしら?』、『やっぱりこれって素晴らしいわ』等々、様々な波を経験しました。U.G.クリシュナムルティやジェッド・マッケナの本に出会って、瞑想なんかやってもなんの意味もないのよ、とやめた時期もあります。

それでも、繰り返し戻って行き、昨年教師になるにまで至りました。

イシャヤのアセンションに関しては、私はどうも、いつも、頭で思っているのと全然違う行動を取ってしまうように思えます。頭は常にやめる理由を見つけ、続けるには、それを正当化できる理由を探さなくてはならない、と騒ぎます。

非二次元は特にいい材料でした。非二次元のメッセージを真に理解するなら、瞑想するのは矛盾している、と頭の中の声は大騒ぎ。しかし実際はというと、ただ規則的に、淡々と瞑想している自分がいる。

ある時点で、”ああ、これは私というこの個体に、ただ自然に起きてることなんだな”、と気づいて、抵抗が止みました。何かのためではなく、ただやっていること。

そして頭が猛反対していても、大賛成していても、それにまったく関係なく続けることができる、この瞑想の無理のなさ、自然さに改めて感心しました。

努力のいらない瞑想法です。これについてはまた、別に書きたいと思います。