2014年10月20日月曜日

めんどうくさい

最近、急に色々面倒くさくなってきました。

去年教師養成コースを卒業してから、いかに”唯一なるもの”に意識を置き続けるか、見えた、と思ったものは本当なのか、瞬間瞬間見つめてみること、確認すること、が興味の対象のすべてでした。逆にそのせいで疑いが湧いたり、わかっていると思ったものがわからなくなって、混乱やパニックを繰り返したりもしました。

私の心はいつも真理に向かっているだろうか?それとも真理という名前の元に、それを通して何か他のものを欲しがっているのだろうか?自分にはわかってる、という勘違いの罠にはまってはいないか?

本当に見通せるまで、とことん見つめるのだ、自分のすべてを捧げるのだ、という思いがありました。このブログを書くにも、その時々で自分に見えている最上ものを、できるだけ正直に書いてみよう、という思いがありました。できるなら、純粋なものだけをシェアしたい。

突然、急速に、面倒臭くなって来ました。

何が面倒かというと、この”すべてを見張っている感覚”が面倒でたまらないのです。自分と目の前に置きていることの間に、余計な確認・認証ステップが入っているようで、それが面倒くさくて、どうでもよくなってきました。

最上の真理を見つめているか?あの非二次元の人が言ってること、この教師が言ってることは、私の現実観とあっているだろうか?―ある意味、知ったことじゃない、というか、気にする暇があったら、目の前のことに飛び込みたい。実際に取りかかるほうが忙しくて、それどころじゃない。それは掃除をするとか、人と話すとか、何一つ特別なことではないんですけど・・・それこそ、時には駐車場でただ陽にあたって立ってるだけなのに、立っているのと陽にあたってるのが忙しく、”私と私の真理”を気にしてられない、という感じです。

書くなら書く、ということだけに向かいたい衝動があって、純粋かどうかなんてうっとうしい自己評価をいちいちしていられない。

そもそも、スピリチュアリティが特別、なんて思ってたのが現実離れしているし。”私など存在しない”という事実が自分の唯一の現実になってるか、なんて確認できるわけないし。

この一年、自分の現実観が刻々と変わって、数ヶ月前に自分の書いた物を読み返すと、自分で書いたと思えない、ということがよくありました。

突然ブログの語調が変わるやもしれませんが、それでも読んで下さる方には、深くお礼申し上げます。