2014年10月3日金曜日

わかっていない

トニー・パーソンズという、非二次元のメッセージを伝える人がいます。彼のメッセージをよくわかっておられる(と、私には見える)方が、”ぼくは未だにトニーの言うことの意味はほとんどわかっていませんが”、と書いておられるのを読んだ時、ふと、”私はいつでもすぐ、”わかった!”、って言おうとして先走っていたなぁ”、と思いました。

察しがいい、頭の回転が早い、などと褒められることが嬉しくて、もっと褒められるべく、”先生!できました!”、”はい!わかりました!”、と素早く手を上げる小学生のノリで、人生のほとんどを生きてきたように思います。

人の話を聞いていても、すぐに”ああー、わかる、わかる〜”、などと相手の言おうとしていることを先取りする。本を読んでもきっとこういうことを言いたいんだろう、と話の顛末・結論を先読みしながら読んでいる。

その結果、答えらしきものの周りにある、多くの大事な情報を取りこぼしました(_ _;)

ここ数年は、”わかった”、と思ったこと、”わかってる”、と思っていたことが実は間違っていた、という発見の繰り返しです。そして”それ”―すべての物が存在するのを可能にしているもの―に再び気づいたとき・・・自分というものが消えて、”それ”しか存在していない、という現実が意識に止まってから、わかる、ということが色んな意味で不可能だと思うようになりました。

一瞬のひらめきを得ることはあります。深い理解を得る瞬間はあります。ただ、その理解はその瞬間のものであって、固めて取っておくことができないのです。わかったものは、するりと、次の瞬間にはすり抜けていきます。

それを忘れて”わかった”、”私はわかっている”と信じる時、自分のどこかに、なんともいえない微妙な不安感がわくのに気づきます。

だからと言って、”わかった”という言葉を使わない、ということではありませんが。

”自分はわかっていない”、という中には、自由さがあります。