2014年8月16日土曜日

神様はここにいる(3)

”私”という幻想が確立すると、すべてと一つである感覚が当然失われます。この喪失感はとてつもないものです。すべてから離れた”個”になる。世界は、私と別の”個”で満ちている、たくさんの”個”で成り立っている。

そうなると、他者とのやり取りに、注意を払わなくてはなりません。人生は駆け引きそのものとなり、自分の欲しいものを得るために、幸せに生きるために、常に神様と、人生と、交渉していかなくてはなりません。

これをしたら何を得られるか。引き換えに何を失うか。
この駆け引きは妥当だろうか?どうやったらもっと得できるだろう?
これをここであきらめてもいいけど、そのかわりここでは譲れない。

私は常に物事を秤にかけ、計算して生きるようになりました。そして時折、自分の損得を別にして生きている人に出会うと、自分がとても汚れた人間のような気がして、いたたまれない思いがしました。

存在の本質を思い出すとき、”私”という幻想が溶ける時、存在しているのは永遠にこの瞬間、目の前にあるものだけだと気づく時、この駆け引きがいかに意味のないものであるかに気がつきます。すべてのものに境がない、個別に存在しているものなど存在しないとわかったとき、人生から何を取って、一体どこへ持って行こうとしていたのか、自分の思考・行為に驚きます。

お気に入りの宝を庭の隅に埋めておこうとするワンコのように、人生からなんとか利を得て、できる限り自分に得になるものを集めて、貯めようとしていました。でも、どこへ持って行って、いつ楽しむつもりだったのでしょう?来世でしょうか?そういうつもりではありませんでした。ただ、自分のやっていることが、あまりにもわかってなかっただけです。