2014年8月6日水曜日

プロセスは終わらない(2)

長い間、ネガティブな思考(と一般的に信じられているもの)を取り除くことが、スピリチュアルな成長の証、ゴールと思っていました。アセンションの教師養成コースの間に変化が訪れ、私のするべき仕事はアチチュードを思い浮かべるだけで、”こうあるべき”と思っている感情を人工的に生み出すことではない、と気がつきました。アチチュードを思い浮かべ、結果ひどいことを言うかもしれない、広い心で対応するかもしれない。でも私のすべきことは、ただ単にアチチュードを思い浮かべるだけ。

しかし、自分の中で特に大きな問題だと思っている事柄が起きるたび、この気づきはあっという間に忘れ去られました。どうしてこの問題をクリアできないんだろう、アセンションが足りてないからだ、いくらアセンションしても進歩しない等々、自己嫌悪しました。

アディヤシャンティはよく、”繰り返し起こることが或る場合、それは注意を払う必要がある証だ。”と言います。生命の源が、私たちの注意を促すようにメッセージを送っている。深く探る機会だ。アディヤの経験に習うべく、自分の問題を掘り下げる、というのに時間をとってみたこともありますが、それは問題の終焉になりませんでした。

かといって、養成コースの間に自分で経験しながらも、カーリーの言うように、すべてがこの瞬間に終わりを告げる、ということに自分を明け渡しきれない。以前はやり方が悪かったから問題が終わらなかったんだろうか、もっと深く掘り下げるべきなんだろうか、でも何かが違う気がする―そんな想念をちょっとの間もてあそびました。

同じ頃、バイロン・ケイティのライブセッションを見ていて、いつまでワークをしなくてはならないのか、という質問に対し、”ワークはプロセスなの。やり続けるものなのよ。”と言っているのを聞きました。

ある地点で突然、”ああ、例え問題を掘り下げて、この想念のパターンがクリアになったとしても、次の問題が出て来る。プロセスを続ける限り、絶対に永遠に終わらない、ということが自分の中ではっきりしました(ちなみにアディヤは別の話題の中で同様のことを言っています)。

では、だから何もしない、ということを意味するのか?

私にとっては、そうではありません。まず、何かをするとき―アセンションでも、想念の境界をチェックすることでも、体の感覚に注意を払うことでも、自分の意志に関係なく、するときにはやっており、やろうと思っても、やらないときはやっていません。何かをする、しないは私の意志によって起こっているのではない、というのが、明らかな事実になっています。

また自然な現実は、記憶の中にとっておくことは不可能で、毎瞬確認することしかできません。

ただ、毎瞬毎瞬新鮮に、勝手に起きていることを、時間の中で”私”が継続的に行っていることだと信じ込むことで、終わらない架空のプロセスを生み出し、苦しみがうまれるのだと気づきました。プロセスという概念を信じるには、”私”という行為者が存在しなくてはなりません。プロセスを行う私と、その進捗のストーリーが継続し、苦しみを生み出します。私という幻想が続く限り、良い・悪い、ポジティブ・ネガティブ、という幻想も続きます。”問題”があると信じ込み、それに取り組んで行くことになります。前進していると思う間はつかの間の喜びも経験できますが、必ず反対を経験するようにできているところがミソです。

私という幻想を私が取り除くことなど不可能ですから、気がつくより早く、また幻想の谷間にハマってしまうのかも知れないけれど、プロセスというものそのものが、他の概念同様、ただの概念だと気づいた次第です。