2014年12月16日火曜日

世界の中心

私が”私”である、と信じているとき、世界はこんな風です。

   
    私がすべてを選んで動かしている。  周囲の物事が私に向かって起きる。
    私に決定権があり、責任がある。  人や物のせい/おかげで、不幸/幸福になる。

個人的には、自分を犠牲者のように感じていた頃は、右側が強く感じられました。調子がよく、自分が物事を管理できているように感じていたときは、左の感覚が強く感じられました。でもいずれにしても、世界観は基本的に同じですね。

”私”という世界の―あるいは宇宙の中心があって、”私”が”私以外のもの”と関わっている。”私”次第で世界が変わる。世界は”私”が動かしている。瞑想も、スピリチュアリティも、非二元も、他のすべてと同じく、”私”が手に取る、”私”のための道具です。”私”がよりよくなるため、より幸せになるため、よい気分になるため―。

”私の内側”も、ある意味、外側のすべての物と同じです。
”私”が”私の内側”を見つめている・・・別の物のように。

”私”という感覚がないとき、世界が・・・というか、力の流れがひっくりかえります。

赤い線は、すべてに満ち満ちている、生命のエネルギー・・・のつもりです(- - ;)。生命のエネルギーには無限の可能性があり、そこから”私”とか、すべてのものが現われては消えます。”私”は大きな海に浮かぶあぶくの一つで、それが他や、ましてや全体をコントロールする、などというのはあり得ません。

初めてこれをはっきり”見た”時は、びっくりしました。今年の春にトニー・パーソンズに会いに行ったときだったと思います。なるほどエクハルト・トールとか、色んな人が、「”私”は神様の振りをしたがる」「”私”は自分が神だと思っている」と言っていたなぁ、と思いました。

気づきは”起きる”のに、”私”は”起こせる”と思っている。
”私”をなくすことすらできると思ってる。すごい・・・・

でもそんな”私”を問題視している間は、視点が最初の絵、”私”という世界の中心に逆戻りしていて、生命のエネルギーはたまに訪れる場所とか、戻りたい場所、いつか永続的なものとして達成される状態、などといったもののように考えていました。

やがて”私”を問題視するばかばかしさが見えて。
さらにあまりにすべてがOKに感じられるようになって。
そうしたらある意味、こんな感じなんですが・・・


同時にすべては個々に違いが際立っている感じでもあります。
そして何よりも、そういった識別をすることが、どうでもいい感じがします。

物事の理解が高まるというよりは、どんどんどうでもよくなり、わからなくなる一方です。物事はあまりにすごいスピードで生まれては消え、来ては去って行くので、”わかろう”とすることは、それを止める―生きているものを檻に閉じ込めるようで、そうする気が起きない、といった感じです。