2019年12月3日火曜日

観察


アイダホ州ボイジーのクリスマスライティング
火を噴く怪獣も皮の中にいたりして、寒かったけど
とても楽しかったです。

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起きてくることにイチャモンをつけなくなると、自分に起きていることを本当の意味で観察することができるようになります。

観察する、と言うのは凝視することや特定の物を見つけようとする見方とは違います。
一切邪魔をしないで、物事のありのままをみることです。

小学生の理科の時間に、皆さんは朝顔の観察をしましたか?
かつては誰もがやったと思いますが、今はどうなんでしょうね。

Image result for 朝顔の芽 画像

始めに花壇に行って朝顔の芽を観察した時、先生は私のスケッチを見て「よく見てる、鋭い観察眼だ」と褒めてくれました。「みんな見ろ、こいつはこんなことまでよく気づいてるぞ」と。褒められて嬉しいというより、ただ見たままを描いただけだったのでびくりしました。

さてさて、2回目の観察の時間では、前回褒められたことが頭にあり、どうやってまた同じ結果をもたらそうか、鋭い観察眼を褒めてもらおうかと自意識で一杯のマインドで、朝がおを凝視しました。


今度も褒めてもらえると思っていたらなんと・・・「いらないことに注意を払ってる。」とみんなの前で酷評されました。自分では同じようにやったつもりなのに、どうしてそう言われたのか見当もつかず、心底戸惑ったのを今でも覚えています。

最初の観察では、どこにもなににも期待がなかったので、純粋に見ることが起きていました。緩やかに広い視界で眺め、ただ気ついて書き留めることが起きていました。

2回目は同じ経験を繰り返そうとしていただけですから、視界は狭まり、純粋に緩やかな視界でただ眺めるのとは、程遠い観察になっていました。

”私”が一生懸命観察しようとしてたんですね。

私たちが“自分”、あるいは“自分というフィールドで起きていること”を眺める時も、まったく同じことが言えます。

本当に自分を知っていくには、“あーまたこんなこと考えちゃった”とか、“こういうことを考えるべきじゃないのに”などと、起きてくることを評価・分析することは無用です。
怒りは嫌で喜びはオッケー、といったように起きてくることに好き嫌いの選り好みをしたり、怒りが減ったから私は進歩している、などといったように”私”の進歩を検証・判断していると純粋な観察はおきません。

ゆったりとすべてが起きるままにさせてあげなければ、実際にはどういうことが起きているのか、知ることはできないでしょう。

私は、恐れが起きても平気になっていく、あまりに辛くて死にそうな気分の時ですらもそのままでいられるようになると、恐怖にただ気づいて眺めることができるようになることを体験から学びました。

本当に辛い時でも、怯えて震えているような時でも、実は抵抗しなければそれをそのまま感じて大丈夫・・・死にもしなければ、酷いことも起きない。
それを一度味わうと、次の時もまた抵抗を解いてみる勇気がわく。
そして次の時には平気だという確信がある。

そうやって自分の苦手な感情にリラックスすることを覚えたら、恐怖や苦手な感情の呪縛が消えて行きました。

やがて怒りも同じに、喜びも同じに、恍惚も同じに。。。。

起きてくることに良し悪しをつけていると、“動く物”と共に踊り続けることになり、“動き”を可能にしている不動で永遠の背景に気づくことが遅れます。

それは単なる背景などではなく、すべての源であり、すべてに浸透しあふれているものでもあります。

起きていることをただそのままにし気づいていることは、私たちの本来のあり方、無限の意識としてのあり方に返ることそのものです。

それは”観察する”という、緊張を伴う視界を狭める動きではなく、ただすべてを手放してゆったりとすべてが漂うままにすることです。視界は広がり、起きていることすべて無差別に、自然に気づく状態がただそこにあります。

そうして本当にただありのままに気づいている状態に返ると、人生はなんて完全なんだろう、自分は本当に大丈夫なんだな、ということが、疑いようもなく明らかになります。

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私が習ったのはかれこれ20年前の12月、東京です。そんな話もこちらで紹介しています。

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