2019年12月11日水曜日

J.M

『ニューエイジにおいては、”素晴らしい私になる”、というのが主題である。
どうやって願望実現ができるか、”光り輝く私”になるか、といった話が主眼である。

そのほとんどは非現実的なおとぎ話であり、子供の遊びである。

しかし真摯に人の本質を知りたいと思う人には、入り口がどんなものであろうとも、どこかで必ず”成熟”が訪れる。そして子供じみた遊びから卒業し、旅あるいは成長の次の地点に向かう。

次に多くの人がたどり着くのは”非二元”と呼ばれる概念である。
これも旅の終わりとはまったく関係ない、次のゲームではあるが、

”私”が人生の主役である、という感覚から、
”私”というのはただの幻想である、という気づきへの移行について興味を持つだけでも、多少の成熟はあるかもしれない。

しかしまだ、本当の意味での最初の一歩とは程遠い。
ほとんどの人が概念に埋もれることに終始し、実践には踏み出さずに終わる。

ここでいう実践とは、ヨガやマントラや瞑想やら修行やらのことではない。

”自分とは何か”
をただひたすらに見つめ、
自分にまつわるあらゆる嘘を容赦無くひっぺがしていくことである。

それはあたかも、麻酔なしに自分で自分を切り取っていくような作業であり、
狂気の沙汰に他ならない。

しかしこの苦しみを通過せずに、真に目覚めた人間を私は知らない。
そんなことが可能だという人は、目覚めではなく何か別のことの話をしているのだ。

悟りたい、目覚めたい、
と口にするほとんどの人が、実際にはただ”より良い私”を欲しがっている。

実際に彼らが欲しいのは夢から覚めることではなく、より良い夢を見ることだ。
それは何一つ悪いことではない。
夢のポイントは夢なんだから。どうしてそれをやめようなんて思う必要があるだろう?

それでもどうしても夢から覚めたいと思わずにいられないのなら仕方がない。
最初の一歩を踏み出すしかない。それは”私”が選んでできることではない。どうしようもなく起きることなのだ。』



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