2018年12月20日木曜日

祈り

一番最初のポストに書きましたが、私は小さい頃から神様が好きでした。
いろんな神様がいることを知って、知っている限りの神様をカバーすべくお祈りしたので、毎晩とても忙しかったです(笑)。

子供の頃の祈りは、もっぱらお願い事、頼みごとでした。
『神様、これください。』
『明日晴れますように』
『これこれがママにバレませんように』←めっちゃ大事でした(笑)

やがて”後ろの百太郎”の入れ知恵で、お願い事は一方通行ではいけない、ということを学び、お祈りは交渉の色合いを帯びていきました。

『ちゃんと勉強しますので、これこれを叶えてください』
『もっと真面目になりますから、これこれが起きないようにしてください』

交渉はうまくいくときもありましたが、とても大事なことが叶わなかったので、私は神様に怒りを抱えるようになりました。

でもばちが当たるのが怖かったので、、、、
お化けとか、いろんなものを怖がっていたので、お祈りを続けました。

十代の後半から20代の中盤までは、基本的には家族を守ってください、というようなことを祈っていたかな。

それから色々あって、ついにお祈りをやめました。
そして十年近く経って、アセンションを始め、アメリカに渡り、アセンションのコミュニティに参加した時、アセンションに加えて、また時折祈り始めました。
自然に、祷るような気持ちが湧いたんですね。
頭を垂れずにはいられないような気持ちが湧いて。

言葉がわからない、自分だけがいつも取り残されているような孤独感の中で、
愛情が欲しい、とか
一緒に成長できるパートナーを与えてください、
と祈ったこともあります。

極端な痛みがない、スムーズにして最速の成長の道を与えてください、
とこれまた自分好みの願いを発注したこともあります。笑

そしてそれがいつしか、
ただあなたにとって最善なように私を使ってください、
に変わり、

ついに祈りは沈黙になりました。

自分の好みはもうどうでもいいので、本当に神にとって最高の用途に使って、
消耗してください、

と祷るようになってしばらくしたら、
祈りは言葉を失いました。

ただ、頭を垂れるだけーもう言葉で祈れることはなくなりました。

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祈りとは何か、瞑想とは何かを勉強していて、キリスト教のcontemplationには、観想と黙想という二つの訳が与えられていることを学びました。

言葉にだす祈りに対して黙祷(contemplation)、そしてそのうちに観想と黙想という二つの段階があり、この二つの違いは、
”祈りを捧げている自分が存在しているかいないか”だそうです。

いいですね〜深いですね〜♪

祈りに深く沈むことは、すなわち自分を完全に手放すことですから、
いつしか祈りを捧げる行為者としての私は消えて、
ただ祈りが起きる、という状態に自然に移行します。

これは瞑想でもまったく一緒ですよね。
アセンションでもまったく同じです。
祈る自分と祈りが勝手に現れる間をゆらゆらします。
自分がアセンションするのと、勝手にアセンションが起きることとの間を、
自然にゆらゆらします。

そのゆらゆらが静止して、人生におけるいかなる場面においても、行為者なしに流れに応じて生きるのが、ごく自然な生き方の基盤となる時、
私たちは自我を超える訳です。

(そこからバーナデットが表現する”完全な自己、すなわち意識の消失”に至るのは、
また別の話。)

以下はとても美しいcontemplationの説明の引用ですが・・・今日は時間がないので原文のみ引用ですみません。可能であったら、原文まま、お楽しみください。

He referred to contemplation as "resting in God." In this "resting," the mind and heart are not so much seeking God, as beginning to experience what they have been seeking. This state is not the suspension of all activity, but the reduction of many acts and reflections to a single act or thought in order to sustain one's consent to God's presence and action.
In this traditional understanding, contemplation, or contemplative prayer, is not something that can be achieved through will, but rather is God's gift. It is the opening of mind and heart - one's whole being - to God. Contemplative prayer is a process of interior transformation. It is a relationship initiated by God and leading, if one consents, to divine union.

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明日からキリスト教カトリックの僧院で、サイレントリトリートに参加します。
クリスマスをそこで過ごせる幸せに、ワクワクです。

祈りについて思いを馳せていましたが、
祈りの現場にて、僧たちと共にクリスマスを過ごして来ようと思います。

into the great silence -
大いなる静けさの中へー

・・・おっと、荷造りせねばっ!!