2019年1月14日月曜日

あけましておめでとうございます / トラピスト修道院でのリトリート



すっかり遅れましたが、あけましておめでとうございます。\(^_^ )( ^_^)/ 
みなさん、よい新年を迎えられましたか?

と、書き始めたのは先週、まだ新年の挨拶が許される時期でしたが、
なんやかんやで書き終えることができないまま、月も半ばとなってしまいました。

今年もぼちぼちやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。m(_ _)m

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新年については、いつもながらアメリカの正月は呆気なく、味気ない、
という以外には何もコメントできることはありません。( - - ;)

が、


クリスマスの1週間、ケンタッキーにあるトラピスト修道院でサイレントリトリートに参加してきました。

通年の異常なギフトショッピングや、異常なギフトオープニング(旦那の実家は丸二日に渡ってこれを行うのです (- -;))から解放されただけでも、ありがたいことこの上なかったですが、

リトリートの素晴らしさは言葉ではとても表わせないものでした。

グーグルのイメージ検索からお借りした写真

トラピストはカトリックの修道会です。
子供の頃カトリックに憧れていたんですが、学校がプロテスタントだったので縁がなく。。。

また憧れと同時に厳格で堅苦しくて、云々、といったイメージも抱いていたのですが、
厳格の意味と方向が私のイメージとまったく違いました。

方向でいうなら内に向かって厳格、そして外に向かって寛容。
意味でいうなら”神のみを見つめる”という意味で厳格、規則はオープン。

もちろん、トラピストの修道会と言っても数多くありますし、ましてやカトリックについては、無数の教会、修道会があります。私の限られた経験(これまで訪れた教会や、信者の知り合い、今回のリトリート)だけで、カトリックを語るわけにはいきません。

が、いずれにせよ、素晴らしかったです。(_ _)



今回訪れたところは、ゲッセマネ大修道院といいます。
リトリートは非常な人気で、通常なかなか予約が取れません。

今回はクリスマスで参加者が減ったので、運よく入れたわけです。
しかも1週間!

ゲッセマネ大修道院のリトリートは、週末3日間コースと、週日5日間コースがあります。そして空きがあると、私たちのように1週間の滞在が可能になります。

料金は完全寄付制。誰がいくら寄付したかはカードや小切手を使わなければ、まったくわからないようになっています。

リトリートQ&Aの中には、以下のような項目があります。
”寄付の金額に目安はありますか?”
”ありません。それは神とあなたの間だけの話です。”
・・・素敵すぎる。



トラピストの修道会は祈りと労働を奨励します。
1日7回の礼拝、自分を振り返る時間、勉強の時間、生活を支えるための労働(ここではフルーツケーキとファッジというお菓子を作っていました)、そして少しの自由時間があります。

日曜やクリスマス、自由時間が増えた時に、礼拝後そのまま自席に残って、
あるいは祭壇に近づいて瞑想・祈りを続ける数人の修道僧の姿には、もう!!
心がふるふるして一緒に残って瞑想せずにはいられませんでした💓

self-gratification、私が得るものへのフォーカスではなく、
神への愛、自分を捧げることへのフォーカス、
というのには、言葉では言い表せない美しさがあります。

私が修道院でみたのは、誰にみられるためでもなく、誰に褒められるためでもなく、
ただひたすら神と自分との関係を見つめる、とてつもなくストイックで
真摯な修道僧の生き様でした。


”礼拝には興味ないから、アセンションしてゆっくりするのかなぁ?”
などと、特にどういう目標も目的もなく、ただ沈黙の時間を楽しみに行ったのですが、

修道僧の礼拝の姿を見た途端にすっかり引き込まれ、1日しっかり自分のペースで
アセンション休憩したあとは、1日7回、朝は3時に始まる礼拝に全部参加せずにはいられませんした。

礼拝しては自室に戻ってアセンション瞑想(礼拝中もしてるけど^^)、ちょっとの読書、ちょっとの散歩。。。

7日間という十分な期間を自分に与えたおかげで、マインドがゆっくりと木の葉のように落ちていく、、、日々さらなる静けさの中へ沈んでいくのに気づくことにもなりました。


自分の中に取り戻されたのは、humbleness.
謙虚さというとちょっと道徳的で違う気がしますが、自分の小ささを深く自覚する気持ちです。


神、というのを何と捉えるか、によって響きは変わってしまいますが、
神に愛を注ぐ、大いなるものに愛と尊敬の気持ちを向ける、というのは、

”私”の悟りを追いかける姿勢、誰が本物か見張ったり、計ったり、比べたり、自分の達成度を気にする中のストイックさに比べると、非常な甘やかさがあります。

原罪とか復唱されるイスラエルへの言及とか、言葉だけを捉えるならまったく共鳴できない要素も多々ありますが、

そんなことは軽〜くスルーして、
エッセンスを全身で味わい、幸せな、ありがたい時間を過ごしました。

かつて自分の中にあったたくさんの思い込みや先入観が消えて、表面上のことを超えて本質を楽しめるようになったのは、ありがたい限りです。

        
           これまたグーグルでお借りした画像。
        


















現在修道僧の人数は一時期に比べて減ったそうですが、それでも30人近くの修道僧が日々7回祈り、すべてを捧げて生きているのですから、相当な場のエネルギーがあります。

依存症からの回復者が祈りの力の助けを借りようと、
あるいは生活に疲れたお母さんが、ほんの1日ゆっくり静かな休息を得るために、
リトリートにやってきます。

誰が何のために来ようと、門は開かれています。
礼拝への強要も一切ありません。

youtubeビデオにも、修道僧の生活を写したものはたくさんありますから、まったく人に知られていない、という訳でもないですが、

こうやって誰に知られることもなく、誰に認められるためでもなく、
ただ祈り、献身している人たちが、実際にはどれほど世界を支えているか、と
感謝を抱かずにはいられませんでした。

そうしてご縁があった何人かの修道僧たちは、
結構世の中の出来事をよく知っており、ユーモアのセンスもバッチリで、
おしゃべり楽しかったです!
(サイレントでも会話できる空間がちゃ〜んと設けられているのです。)


感謝。