2018年11月20日火曜日

目覚めの報酬はない

目覚めることには実際のところ、ご褒美はありません。

確かに、かつて”私”中心で生きていた(エゴ主体で生きてきた)時に比べると、
人生は自然に流れ、格段に楽だと言えます。

ただしそれは、辛い思いをしないのではなく、
不快なことが起きないのでもなく、
むしろただ、不快なままでいられる、というに過ぎません。

私、私の感じること、私の満足感、といったものの重要性が
限りなくゼロに近くなっていくことで、
自分の体験の質やら、感覚やらが大事じゃない、
よくても悪くても大事なことと思えなくなる、というだけです。


風が吹いた時に、雨が降った時に、嵐がきたときに、文句を垂れるもの、
晴れだったらどんなにいいかと言い続けるものががなくなる、
というだけです。
あるいはそんな声がタラタラ頭を流れても、本気にすることができない、
同化することができない、というだけです。

雨って大事なんだよね!
と、”晴れて欲しい教”から”雨は大事教”に、
信仰が変わったのではありません。

エゴが薄れても、人生が自然に流れるようになっても、
そこで満足せずにさらにたった一つしかない存在の真実とは何か、
見つめ続けていくなら、
”私”にまつわるすべてを放棄することになるので、
私に還ってくる物などなくなるばかりです。

素晴らしいひらめきも、
新しい気づきも、
理解の深まりや、学びの深まりも、
意識の拡大に伴う高揚があっても、

それを大事に楽しむ限り、”私”は存続しますから、
全部放棄することになります。

大いなるものへの畏怖の念だとか、
献身の思いとか、
生きとし生けるものへの深い愛だとか、
すべてとの一体感だとか、

そういうものすら、温めることなく全放棄することになります。

放棄することへの献身も、情熱も、真面目さも、
むろん全放棄です。


”悟りを取るか、1億円を取るかと聞かれたら、迷わず1億円を選べ。”
といったのはラメシュ・バルセカーでしたか。

悟りをとったら楽しむ”私”がいなくなっちゃうけど、
1億円をとれば、ちゃんと自分が残るから、
(なくなっていく不安感もおそらく込みで・笑)1億を持った楽しみを
味わうことができるから、と。

本当に夢から醒めたいと思うか、
要注意。