2017年12月18日月曜日

確認する


散歩中に、雲ひとつない真っ青な空を手や指で切り取って眺めます。
なにもない、ただの青


視界に奥深く広がるなにもなさに、それを眺めている側が同調し、思考を紡ごうとする動きが停止します。

からっぽさだけがそこにあります

首の疲れを感じた体が自然に頭の位置を戻し、目線が元の高さに戻ると、青と共にあった透明なものが、空からそのまま目の前まで、途切れることなくあるのがはっきりします。
それはあたり中にあります。


”すごい、これ。思考止まったわ。家に帰ったら座ってもっとしっかり眺めよう”とか、
”毎日やって見よう”とか、
”昔は空をよく眺めたよなぁ”とか、
いろんなコメントが沸いては去るままにします。


会話に参加する代わりに、なにを通してそれを認識しているのか、身体感覚のひとつ一つをじっくり確認します。
匂いはあるか
触れることはできるか
目に見えているのか
聞こえるのか
味はあるのか

結果を見ようと素早くチャチャっと片付けるのでなく、本当にしっかりと確認するなら、おそらくたった一つの感覚を1秒試しただけで”世界”が消えます。

次の瞬間、
”怖い”とか、
”すごい”とか、
”なんだったんだ”とか、
”なんだ、なんでもないじゃん”
”なにも起きないじゃん”
といろんな感想が湧いたり、
ただびっくりしたり、がっかりしたり、
”ふん”と鼻で笑ったり ー すべて起きて去るままにします。

感想を感想文に広げず、意見に賛同も反対もせず、
起きたことを反芻せず、対応しようとせず、
自分にどういう影響が出ているか探そうとせず、

ただ、なにを通してそれを”知って”いるのか見てみます。


なにも特別なことなどない、淡々とした作業です。


ただなんども、なんども、試しに”自分で”確認してみるだけです。