2017年2月19日日曜日

確認


”おそらく、この在り方を最もよく表す言葉は’強さ’です。継続的で、受身的な感じの、中心にある内的な強さです。” 
– バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」





ここチャタヌがは、冬をほとんど飛び越して、春になってしまったような感じです。

今年は年明けからすごい嵐が続いています。

新大統領就任にまつわる嵐もそうですし、

個人的にも、ここ何年もなかったような大嵐が家族内で起きています。
(記憶がどんどん曖昧になっていくので、多分、ここ何年でなかった大きな出来事だと思う、というのが現状ではありますが (^^;) )

こういう時に、なにが”現実”なのかをチェックしてみることは、
私にとってはとても大切なことです。

例えば頭の中で ”これはこうでとんでもない!”とか、
”それは嫌!” とかいう思考が湧いて、
それがしつこかったり、音量が異常に大きかったりしたら、


やってることのすべてを止めます。


頭の中の嵐と、目の前の花の静けさと。
その両方を等しく可能にしているものを
ちょっと見てみます。
どちらを存在させているのも、
どちらに存在する力を与えているのも
まったく同じものであること
を見てみます。新たに発見します。

ふと意識がそれると、次の瞬間注意がまたそこに引き戻されるまで、
嵐は存在もしていないこと、
を確認します。新たに発見します。

例えば体の中に緊急感を伴うセンセーションが湧いて、
それに伴って”これをすべきよ!” という思考がわいたから

その衝動に従って即行動、というのはまずありません。

この感覚には異常な説得力があり、”今すぐ”何かをしなくてはいけない、
”今がその時なんだ”、と訴えます。

今すぐやらないといけない、今言わないといけない、
外しちゃいけない、逃しちゃいけない。。。。

それは例えば誰かを助けなくてはいけない、
教えてあげないといけない、
何かしてあげなくちゃいけない、

という思いの時もありますし、
逆に、できない、いやだ、
と言った後の罪悪感の逆風の場合もあります。
(できない、いやだ、自体には苦しみはありません。)

私はマインドが「できない」と言いたいとき、
本当にできないのか、「したくない」だけなのか、
しぶとく自分の中で確認し(多くの場合、私の中の”できない”、は”したくない”、
の綺麗なごまかし表現だったりするので)、
”したくない”が本当の場合はそれをはっきり伝えるようにするので、
その後の罪悪感の逆風も強烈だったりします。
(繰り返しーしたくない、には痛みはありません。その後の余波は
注意を奪われると苦しみに満ちています。)

その強烈な不快感から逃れるために、”何かをしたい思い”が、
これもまたひどく強烈になります。
”言い訳がしたい”
”説明がしたい”
”代替え案をあげたい”
”やっぱりしてあげるべきか”
”映画に行こう!” 


この衝動に対して、私は完全に力を抜いて、打たれっぱなしになります。
多くの場合、思考の形になる前に、焦燥感や不安感、その前の体のセンセーション(言葉にならないモヤモヤ、体の中の落ち着かない感じ、走る衝動、肩の力み)の段階で。

それに沿って行動したい衝動と真反対に。
それと戦って制覇したい、コントロールしたい、
乗り越えたい、変えたい、
という衝動と真反対に。


「そうしたらどうなるの?」


という解決策思考はマインドのもので、

ただあることはただ”在る”こと、それだけです。

マインドにとっては非常に残念なことですが(笑)。


それだけです。


そして気づいたら、何かをしている時もある。
何かを言ってる時もある。

その何かが喜ばれたり、感謝されたり、”私”に満足できるもので
あったりすると、

今後は逆の風向きの嵐が大きくおきます。
恍惚の嵐
いい気分の嵐
愛の嵐
ふわっと光に包まれているかのような
”ああ、よかったわ”


また、やってることのすべてを止めます。


愛と呼ばれるものも、痛みと呼ばれるものも、
可能にしているものは同じであるか、
見てみます。

愛の周りではそれは濃くて、
痛みの周りではそれは薄いのか、
見てみます。

”私”が何かをしてそれを増やせるのか、
確認してみます。

増やせるなら、それは移ろいゆくもので、
唯一不変のものではないことを
また確認します。


すべてに、常に、たゆみない、一点の間違いもない動きが起きていて、

それには、”私”が思考を使って盛り立てる感情のエネルギーは、
まったく不要であるのを、何度も何度も気がつきます。

気づくたびに、より精妙なレベルで本当であるのに気づきます。


こういう確認の機会が起きることに、ありがたい、という思いがわきます。